「まあ、アレクセイ! 怪我は大丈夫なの? 昨日の今日なのに……」
ドアを開けたガリーナが、開口一番そう言った。

「一人で大丈夫って言ったのに、ついて行くって聞かないんだよ」
「いや、お前一人じゃ道が分からないだろうが。ほら、昨日はもう暗かったし……」

「一つ目の角を曲がるだけじゃない。子供だって分かるよ」
「いや、だけど、この辺は似たような造りの建物ばかりだし、それに、万が一、路地に連れ込まれでもしたら……」

「こんな真っ昼間から?」
「お前なぁ、そういう油断が一番危険なんだぞっ」

半ば痴話喧嘩のような二人の言い合いを、ガリーナは微笑ましげに聞いていた。
──昨日までのぎこちなさは何処へいったのかしら? たった一晩で、二人の溝は、ふんわりと埋まってしまったみたい……。

「ユリウスのことが心配なのね、アレクセイ」
「いや……だから、道が……」

しどろもどろのアレクセイ。その隣で、ユリウスは頬を染めて俯いている。
嬉しいような恥ずかしいような、経験したことのない感情にユリウスは戸惑った。

胸の奥で小さな泡が湧き立つような擽ったさ。

ドイツにいた頃も、こんな気持ちになったことがあったのかな……。
遠い昔、クラウスに……?

「それにしても……、すっかりサラファンが馴染んできたわね、ユリウス。まるで初めからあなたのためにあつらえたみたい」

青いサラファン姿を眺めながら、ガリーナは嬉しそうに微笑んだ。

「だけど、窮屈で動き難いし、まだしょっちゅう裾も踏みそうになるんだよ」

ユリウスは持て余し気味にサラファンの裾を指で摘まむ。


「ふふ、大丈夫よ。毎日着ていれば嫌でも慣れるわ。それに踏んでも、すぐ傍に抱き止めてくれる人がいるじゃない?」
ガリーナはアレクセイに目配せした。
「あ、あのなぁ……俺だって仕事があるし、年がら年中こいつのあとをついて回れるわけないだろう? 第一、この腕じゃあ受け止めたくても……」


「あら、あなたなら片手で十分でしょ?」
宙に浮いたような弁解など、ガリーナは歯牙にもかけない。
「アレクセイ、本当?」
顔を上げて自分を見つめる悩ましげな表情と、潤んだ碧の瞳に捕まった。
アレクセイは見えない糸に手繰り寄せられるように、ふらぁっ……と片手を伸ばす。

「痛ってえッ!」
「アレクセイ!?」
伸ばす方の手を間違えた。
ユリウスが走り寄る……そして、案の定、サラファンの裾を踏んづけた。
「きゃっ!」
「ユリウ……わあっ!!」
この前同様に受け止められる、とアレクセイは思った。しかし一つだけ誤算だったのは、今回はユリウスの勢いの方がまさっていたことである。

二人の躰は重なって、一瞬だけ宙に浮き、アレクセイの背から床に落ちた。背中を強か打ち付けて。
──遠い昔にも、こんなことがあったなあ……。
アレクセイの頭の中を、枯れ葉と星が一緒くたになってぐるぐる回る。

「だ、大丈夫!? アレクセイ」
ユリウスは、アレクセイの逞しい胸板の上にすっぽり抱き止められ事なきを得た。実際のところ、彼女の躰の重みより背中の痛みの方が勝っていた。

あの時は痛くなかったのになぁ……。
そうか、落ち葉がクッションになっていたのか……。そうだった……そう……。

「アレクセイ? 頭打ったの? ねえっ」
ユリウスが、アレクセイの後頭部を探るように片手を当てた。
柔らかな金色の糸が彼の顔に垂れ落ちる。甘い花の香りと一緒に……。

アレクセイは背中と腕の痛みも忘れて、そのたおやかな肢体を抱き締めた。ついでに、ここが何処だかも忘れてしまった。

「早く……」
「え? 何? アレクセイ」
早く……、すずらんが咲かねえかなぁ……
「聞こえないよ、アレクセイ?」

──はっ!
俺は今、何を……。
とんでもなく不謹慎な己の欲望をアレクセイは慌てて打ち消す。
「だ、大丈夫だ……このくらい」


漸く二人して躰を起こすと、ガリーナが口に手を当て、笑いを嚙み殺していた。
ズボフスキーがこの場にいなくて本当に良かった。
アレクセイは心の底からそう思った。

 

 

 

 

日付は、一日前に遡る──。

仕事帰り、俺たちは、突然暴動に巻き込まれた。
避ける間もなく、軍の発砲した流れ弾が俺の腕を掠めた。焼け付くような痛みが走る。
幸い、一緒にいたズボフスキーは無傷だった。
肩を抱えられ、俺は、何とかやつの家まで辿り着いた。

「アレクセイっ!!」
悲鳴が聴こえたところまでは覚えている。
遠くなる意識の向こうで……、悲痛な叫び。何度も。
ごめんな……ユリウス。お前には、哀しい思いしか与えられない……。
俺だって、本当は、お前の笑った顔を見ていたいんだ……いつだって……。

気がつくと、ベッドの上にいた。
どうやら、俺は気を失っていたようだ。
「気がついたか? アレクセイ」
ズボフスキーの声。
「アレクセイ、大丈夫?」
ガリーナの声。

それから……、不明瞭な咽び泣き。
「……ア……レク……」
息も切れ切れの、か細いソプラノ。声にならない声。
「よか……っ……」

お前の方が瀕死の重傷みたいだ……。
頬に覆い被さる金の髪。幾粒もの涙が止め処なく、首筋に落ちるのを感じた。

「ユ…リ……、もう、大丈夫だ、から……」
俺の肩にしがみつき、いつまでも泣き止んでくれないユリウスの頭を、力の入らない腕で何度も摩擦さする。
お前の涙で、溺れちまうよ……。

ズボフスキーが、困り果てた顔の俺を見た。
「アレクセイ……、いい加減自分の気持ちに抗うのは止せ。お前の答えは、もうとっくに出ている筈だ」
「ズボフスキー……」
「これ以上、彼女の存在を無視し続けることが、今のお前に出来るのか? そんな一生で満足だと、これからも言い切れる自信があるのか? 闘いだけが我々の人生ではないんだぞ、アレクセイ」
「俺……は……」

「俺たちは機械じゃない。感情に蓋をして、闇雲に突進しても、必ず何処かで暴発する」
もう一度、ズボフスキーは俺を見据える。
「愛がどれほど勇気と意志を強くしてくれるか、お前は学んでもいいんじゃないか?」

ズボフスキーは、「ま、少し考えろ」とガリーナを伴って部屋を出ていった。
ユリウスは、まだ泣きじゃくっている。
狭い部屋の中で二人きり。
どういうわけか、ゼバスの寄宿舎が頭に浮かんだ。

『お前も道づれにしてやるぞ……!』
あの日、俺の秘密を知ったお前を、ベッドに引き摺り込んで恫喝した。
怯えたように俺を見つめる碧の瞳が脳裏を過る。

酷いこと言ったよな。
怖かったろうな……、二つも下の、女のお前に。
泣き声は、いつの間にか啜り泣きに……。

「ユリウス……」
肩を摑む手が、ぎゅっ、と強まる。
「俺の家に、来てくれるか?」
「……え?」
「そうしたら……、もう、おまえを帰さない」
「それっ…て……」
「これからは、お前と一緒に、暮らしたい」

ユリウスは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。睫毛までびっしょり濡れた真っ赤な瞳。
「本当に……?」
俺は、その雫を指で拭った。

「ああ」
「あなたの傍に……いていいの……?」
「いて……くれるか?」
「ア……レクセ…イ……」
大きな瞳にみるみる涙が溜まった。
これ以上泣かれたら、こいつの目まで零れ落ちそうだ。

「さあ! 善は急げだ。帰るぞ、ユリウス」
「アレクセイ!? だ、駄目だよ。傷が……」
「もう血は止まってる。動かさなきゃ大丈夫だ」
「で、でもっ!」

俺は構わず躰を起こし、
「ズボフスキー! ガリーナ!」
慌てて入ってきた二人に、きっぱり言った。
「世話になったな。こいつを連れていく」


「え? だけど、まだ……」
そう言いかけたガリーナの言葉をズボフスキーが遮る。
「ああ、さっさと帰れ。これで、やっとこっちも夫婦水入らずだ」
「フョードル!?」
ガリーナが真っ赤になる。全く、何年経っても仲のよろしいことで。
そんな夫婦に俺たちも早く……、いや、ゆっくりとなっていこう……。

「長いこと、悪かったな」
俺は、ズボフスキーに向かって片目を瞑り、呆然と立ち尽くしているユリウスの肩を強く引き寄せた。
おかしなことに、傷の痛みは感じなかった。この時は。
たぶん気分が高揚していたのだと思う。

「待って、ユリウス」
ガリーナが走り寄り、ユリウスの頭に青いスカーフをふわりと被せた。
「ガリーナ?」
「外はもう薄暗いけれど、その顔を晒して歩くのはちょっとね……」
「そ、そんなに酷い……?」
「大丈夫。あなたが綺麗なのは変わらないわ」
ガリーナは、にっこり微笑む。


「……ありがとう、ガリーナ」
まだ涙目のユリウスの顔に、漸く、花が綻ぶような笑みが浮かんだ。

 

 

 

 

薄暗い雪の道を二人寄り添って歩いた。しんしんと冷える夜。でも躰の芯はぽかぽかと暖かかった。

「腕、痛くない?」
「ああ。お前の支えのお陰で何ともないよ」
鍵を開けるのも、もどかしかった。
ドアを閉めるのもそこそこに抱き締めた。
長い間、焦がれ続けた愛しい躰を──。

「あ、アレクセイ……」
本当は、ずっと、こうしたかった。
俺は、こうしたかったんだ……。
「き、傷が……」
「お前って、けっこう心配性なんだな」
「だって……」
「顔が、見えない」

スカーフをほどいた。
上気している両頬を両手で包み、
まだ腫れぼったい瞼に、そっと口づける。
「……ぁ…」
それから、何年振りかのキスをする。
吸いつくように柔らかな唇。何一つ変わらない。あの頃のままだった。





枯れ葉の上で、ミモザの館で、
このペテルスブルクで……、
耐え切れず……口づけた。

今にも散ってしまいそうに震える花弁の蜜を零さず吸った。
例え目隠しをされていても……、お前の唇は判るだろう。

時間が止まる──。

冷えた部屋の中で、俺は寒さを忘れた。
頬の熱が手のひらに伝わる。
俺の服を握る指が、戸惑いがちに動きだす。
俺は気づかない振りをした。
必死で応えようとする仕草が愛おしくて、自制の糸が切れそうになる。
唇とは違うやわみを絡めとると、しなやかな躰が強張った。

「…ん……」

苦しげな吐息が漏れる。
途切れ途切れの息遣い。

……お前の方が瀕死の重傷みたいだ……。

「あ……っ、アレク…セ……」
弱々しい腕が俺の躰を押し戻そうとする。
「ぼくを……ころ…す、気……?」
「……悪い……」

金色の髪が揺れ、真っ赤に火照った首と耳が見えた。あぁ……、一晩中こうしていたい。
けれど、お互いの息は白い。
そろそろ、いい加減にしないと凍えそうだ。
俺は暖炉に火を起こす。
ユリウスは、なんだかぼうっとしているようだった。

……やり過ぎたかもしれない。
少しずつ暖気が部屋を包んでいく。俺はもう一度、ユリウスを抱き寄せた。

「赤み……さっきよりはましになったな」
「そう?」
「ああ……、その代わり、ほっぺたの方が真っ赤っかだ」
「アレクセイっ!」

俺は──、
この躰を、二度、離した。
それから、何度も夢に見た。──何度も。

「ユリウス」
「は、はい……」

だが……、三度目はきっと無い。

「この傷が治ったら……、この春の一番美しいすずらんをお前に贈ろう」
「アレクセイ……」

今、目の前にいるお前は、幻じゃない。

「祝婚歌にかえて……、この部屋を花々でうずめよう……」
「祝婚、歌……?」
「この国の、昔からの……プロポーズの言葉だ」

だから、もう決して、お前を離さない。
もう二度と……。

 

 

 

おまけ1*いだきたい…

 

今年の冬は長い。

だが、ズボフスキーは去年と変わらない、と言う。
俺だけなのか……。

アレクセイは後悔していた。
柄にもなく、かっこつけてしまったことを。
普段、すずらんなんか見向きもしない癖に。

誤算もあった。
腕の怪我が思った以上に回復が早かったことだ。自分の読みの半分の期間で完治した。

ああ……まことの愛は、心だけではなく、生身の傷さえも癒すのか。

またかっこつけてしまった……。
(『ボーっとカッコつけてんじゃねーよ!』と、〇コちゃんに叱られそうである)

だいたい……、
ひとつ屋根の下で、妙齢の男女が寝床を共にしておきながら、我慢しろ、と言う方に無理がある(言ったのはお前だ)。

……あいつが可愛すぎるのもいけない。

昔のあいつも可愛かった。特に女だと知ってからは(勿論、その前から憎めないやつだったが)。
あの反抗的で天の邪鬼で憎たらしい顔が接近する度に、どれだけその場で抱き締めて、唇を奪ってしまおうかと思ったか……。

そうしたら、あいつはどんな顔をしただろう?

びっくりして、目を丸くして、固まって……、
真っ赤になって、大粒の涙をぽろぽろ流して……、

それでも、俺はあいつをいだく腕を緩めないに違いない。

 

 

 

おまけ2*春よ来い

 

ミハイロフ家の小さな窓の上に、何かがぶら下がっている。
頭のでかいおたまじゃくしが白い布切れを被って、首を吊っているようだ(言い方)。
ユリウスが、ゆらゆら揺れるそれを見上げた。

「アレクセイ、これは何?」
「え!?」
まさか、東洋に伝わる春(晴れ)を呼ぶ人形だ、とは言えない。

「あ、あぁ……、それはだな」

いや、言えないこともないが、己のよこしまな気持ちを見抜かれてしまいそうで恥ずかしい……。

アレクセイは暫し言い淀む。
「可愛いね」
ユリウスがにっこり微笑む。

……お前の方が可愛いよ。

「ねえ、目を描いても良い?」
「え? ああ、構わんが……」
ユリウスが背伸びをして、まん丸の黒目を二つ、その下に、にっこり笑った口を描いた。
「どう? 可愛い?」

……だから、お前の方が可愛いって。

ずぼっ!!!

雲の上から、春の女神が片足を踏み外した。

 

 

    

 

Матрёшка(マトリョーシュカ)

 

金色の髪と碧い瞳が魅力的な青ずきんちゃんは、おばあさん思いの優しい女の子。
或る日のことです。青ずきんちゃんは、おばあさんの家へ遊びに行きました。

「おばあさん、おばあさんのお口は何故そんなに大きいの?」
青ずきんちゃんは尋ねました。

「それは、お前を食べるためだよっ!」

がばあぁっ!!

ベッドから起き上がったオオカミは、青ずきんちゃんを抱き寄せて、抱き締めて、ふくごうと(ギャー)……。


ところが、どうしたことでしょう。
いてもいても、次から次へと青い服が現れます。


なんということでしょう。
青ずきんちゃんは、マトリョーシュカだったのです。
そして、やっとオオカミが最後の一枚をいだ時、青ずきんちゃんの躰は光り輝き、光背に変貌していきました。

「愚か者よ。わらわは春の女神じゃ」
訂正。青ずきんちゃんは、春の女神だったのです。
「お前のしつこさには負けた。明日から春にしてやろう」

そう言うと、春の女神は、ひらひらと雲の上まで飛んでいってしまいました。
果たして、オオカミ(アレクセイ)のもとへ、春はやってきたのでしょうか。どうでしょうか。

(つづく)

 

 

 

 

【作品解説】

 

『Je te veux(おまえが欲しい)』
エリック・サティが1900年に作曲したシャンソン。

 

原作をなぞりつつえーんなシーンはばっさりカット。

今後もこのような展開が続く予定です。・・・まだ未完だけど。

どよ~んとした結末が苦手なそこの貴女赤薔薇、どうぞ安心してついてきて下さいねウインク

 

『おまけ』三編右矢印劇団三頭身が演じていると思って下さい。

本編がシリアスだと、『おまけ』で息を抜きたくなるのです。

 

 

 

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