ユリウスの知らない彼の淡く儚い出会い。そして……。

 

 

 

 

その頃、俺は、事あるごとに、親父と将来のことで衝突していた。
音楽の道へ進みたい俺と、自分の仕事を継がせたい親父。

親父にしてみれば、勉強の合間の気分転換のために買い与えたヴァイオリンに、俺がここまで夢中になるとは夢にも思っていなかったようだ。

 

いつまでも子供が親の言うことを大人しく聞くとでも思ったら大間違いだ。

 

 

クローバー

 


指先に触れた弓のしなりで、弾いた時の音の軽さで、もう夏も終わる、と感じた。
そんな季節だったと思う。

週に二度、ヴァイオリン教室へ行く途中、ライン川沿いに古びたアパートが建っていた。
その前を通りかかると、決まってピアノの音が流れてくる。一階の角の部屋だった。
不思議なことに、いつも同じ曲だった。
一ヶ月もすると、流石に飽きてきて、たまには違う曲も弾けばいいのに……、と思ったりもした。

その日も、ヴァイオリンケースを抱えて歩いていると、代わり映えのしない旋律が聴こえてきた。同じフレーズを音階を変えて繰り返すだけの曲。
俺は思わず、「ちぇっ、またか」と舌打ちをした。昨晩も親父と言い合いをして、朝から機嫌が悪かったのだ。

その時、ぴたり、と音が止んだ。
その部屋の前に、足が差しかかったところだった。
余りにタイミングが良かったので、舌打ちが聞こえてしまったのか、と思った。

突然、その部屋の窓が開いた。俺はびっくりして思わず後退った。
女が顔を覗かせる。目が合ってしまった。

外国人だった。
東洋系の、そんな顔立ちをしていた。透き通るほど白い肌と、ストレートロングの黒髪。茶色がかった黒い瞳。
その視線が俺の手元へ向いた。

「ヴァイオリンを、やるの……?」
見た目に反して、流暢なドイツ語だった。
「あ、うん……」
つい釣られて答えてしまう。

「……聴いてみたいわ」
「だ、駄目だよ。これからレッスンなんだ」
「そう、残念……」
「……帰りでよければ、いいけど」

初対面の人間に、どうしてそんなことを口走ったのか、自分でも分からなかった。

「あら嬉しい。じゃあ待っているわ」
「分かった。それじゃ……」

俺が踵を返す瞬間、彼女がにっこりと微笑んだ。

 

 

 


「どうぞ入って」

ドアが開いた瞬間、黒髪の人形が立っているのかと錯覚した。細長い手足と象牙のように無機質な肌。薄いピンクのブラウスと焦茶色のロングスカートがその肌によく馴染んでいた。

いくつくらいなんだろうか……?

窓からの風が通り抜け、スカートがふわり、と靡いた。
外観とは違って、部屋の中は意外と小綺麗で新しかった。白いアップライトピアノが、窓際に置いてある。どうりでよく聴こえるわけだ。

「お茶、いかが?」
女がトレイにカップをのせて運んでくる。

「い、いらない。遅くなるから」
「まあ、女の子みたいね」
彼女が子供のように、ころころ笑う。俺はむっとした。
「ごめんなさい、悪気はないのよ。では、聴かせてもらえる?」

まるで、ヴァイオリン教室の先生みたいな言い方をする。俺は、ヴァイオリンをケースから取り出して、ちょうど今、習っている曲を弾き始めた。
黒褐色の目が見開いた。

「……驚いた。あなた上手なのね」
「解るのかよ?」
「そりゃあジャンルは違うけど、同じ音楽でしょう?」

彼女は片方だけ笑窪を作って微笑む。
艶のある黒髪を白い指に絡める仕草が妙に艶かしくて、俺は落ち着かなくなってきた。

「俺……、もう帰らないと」
「ね、また聴かせてくれる?」
「別にいいけど……」
「じゃあ、家にいる時は窓を開けておくから、声をかけてね」

言われるがままに約束を交わしてしまった。何故だろう? 相手が女だから気を許したのだろうか。
それよりも、何の躊躇もなく、部屋に見知らぬ男を招き入れて無防備過ぎやしないか? と余計な心配をしてしまう。それとも、俺は、男として見られてないのか。それはそれで少しショックだった。

そりゃあ彼女からしたら、俺はまだ子供の部類なんだろうが……。いや、その前に俺の年齢も言ってないし、彼女の歳も聞いていない。
そんなことを思いながら、俺は暗くなりかけた家路を急いだ。


 

 

 

相変わらず、同じ曲が流れている。窓は開いていた。
声をかけようとして、名前を聞いていないことに気がついた。仕方がないので玄関に回る。

「あら? 窓は開けていた筈だけど……」
「どうやって呼べばいいんだよ?」
「……そうだったわね。うっかりしていたわ。どうぞ」

悪びれもせず、くすくすくす…と彼女が笑った。片方だけの笑窪に目がいく。

「名前、教えてくれないのかよ?」
「人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るものよ」

揶揄からかわれているとしか思えない。

「クラウス……フリードリヒ・ゾンマーシュミット」
「まあ、フルネームを教えてくれるの? 嬉しいわ」
「あんたの名前は?」
「名前なんかどうだっていいじゃない」
「はあ? じゃあ、歳は?」
「まあ! 女性に年齢を訊くつもりなの?」

やっぱり……揶揄われている。

「あのなあ……!」
「そんなことより、早く聴かせて。あなたのヴァイオリン、私好きよ」

心臓がどくん、と鳴った。

「い、一回しか聴いてない癖に、いい加減なこと言うなよ……」
「あら、こういうのはインスピレーションでしょう? 自分に合うか合わないかなんて一度聴けば分かるわよ。好きって言ってるんだからいいじゃない。ね、クラウス?」

黒褐色の瞳が輝き、三日月形に変わる。
わけもなくどきどきした。この抑えようのない高ぶりは何だろう。初対面から今日で二度目の、まだ名前も知らない女に……。

その後も、俺はヴァイオリン教室の帰りに、彼女の部屋を訪れては、ヴァイオリンを弾いて聴かせた。
窓が閉まっている時は留守、というのが合図だった。
だけど、俺が行く時間は大抵窓は開いていて、お決まりのようなメロディが流れてきた。

依然として、彼女は名前を教えてくれなかった。その癖、俺の名前だけは気安く呼び続ける。初めのうちは俺も面白くなかったけれど、そのうちどうでも良くなった。
何より、少しハスキィがかった声で、「クラウス……、ねえクラウス」と呼ばれるのは満更でもなかったから。






色づき始めた木の葉のように、ストラドの音色が変わる。

秋が深まってきても、彼女の曲が変わることはなかった。

一度だけ、どうしていつもその曲ばかり弾くのか、と聞いてみたことがある。
けれども、「何故弾いてはいけないの?」と逆に質問されてしまった。俺は不貞腐れたが、そんな答えを返されるような気もしていた。

いつしか……、その曲は俺にとっての精神安定剤代わりになっていって、

学校で面白くないことがあった日も、親父と揉めてくさくさした時も、その曲が耳に届くとほっとする自分がいた。
どんなにささくれだった気分も、自然と穏やかになっていった。

バッハの『前奏曲プレリュード』。
同じフレーズを音階を変えて繰り返すだけの曲。なのに美しく豊かな音の響き。
マインツの街並みをさらさら流れるラインのような……。

 

 

 

 

それが一転して濁流に変わった。

ピッチが上がり叩きつけるような不協和音。俺は初め、別人が弾いているのか……? と思った。
秋雨がしつこいくらい長引く時季のことだった。

首を傾げながらドアをノックすると、ピアノの音がぴたりと止んだ。かちゃり…と短い音。ドアから覗く青白い顔。

「ど、うした……」
最後まで言い終えないうちに、彼女が崩れ落ちるようにしがみついてきた。俺は慌てて抱き止めて、ヴァイオリンケースを落としそうになった。

「何だよ? 今のピアノ……、いつもと全然違うじゃないか」
動揺を隠して、問い質す。

彼女は何も答えず、そのまま無言で俺を部屋に押し込むと、壁際のベッドへ躰を沈めた。
俺の躰を巻き込んで……。
のしかかる軽い躰。シャツの襟を摑む細長い指。

嗚咽が漏れる。
押し殺すような掠れた声。

黒い髪が降り注ぎ、俺の顔を覆う。それから、ぶつけるようなキス。
何度も、何度も……。

その髪を掻き上げて、俺は躰を回転させた。それから先は──憶えていない。
夢だったのか、現実だったのか……
どうしたのかも、どうなったのかも……。

いつの間にか、雨は上がっていた。

「初めて……だったのね」
「え!? いや……あの……」

黒髪を耳にかけ、俺の顔を彼女が眺める。
「もうとっくに経験していると思っていたわ……」
「お、俺は……」
「ふふ……、そんなことは、どうでもいいことよね」
片方の笑窪が、くっきり浮かぶ。なのに、表情は寂しげだった。


それからも、何度か俺は部屋を訪ねた。ヴァイオリンを抱えて。
お互いに、それを口実にして。

「なあ、名前を教えてくれよ。名前を、呼びたいんだ」
「駄目よ。名前を知ったら、情が移るわ」
「どういう意味だよ?」
「情が移ったら、離れ難くなるでしょう?」

彼女は目を伏せて、糊の利いたシーツの皺を片手で直している。

「は? 何言ってるんだよ? 離れるなんて、俺はこれっぽっちも……」

「馬鹿なことを言わないで。あなたはまだ若いのよ。きっと近い未来に、素敵な女の子に出逢うわ。綺麗で可愛くて、あなたのことだけを見つめていて……。そんな時、頭の片隅にほんの僅かでも私の名前が残っていたって邪魔なだけよ」


何なんだ? その理屈は。俺は益々困惑する。


「だけど、俺の名前だけ訊いておいて、狡いじゃないか」
「私は、大人だもの。あなたの名前なんてすぐに忘れるわ」
「嘘だろう!?」
「あら、そんなことくらいで熱くなって。やっぱり子供ね」
「馬鹿にするなっ……!」

俺は彼女を組み敷いて、陶器のような肌に乱暴に唇を押し付けた。シーツにまた皺が寄った。

 


名前が駄目なら、せめて生まれた国を知りたい……、と俺は思った。


Japanisch日本人……? それとも、Chinesisch中国人か?
だけど、彼女は笑って言った。

「黒髪と黒い目だから? 単純ね。それも無意味なことよ。あらぁ、そんなに不貞腐れないで。ふふ、そうね……、桜が……、桜が綺麗な所よ。春になると零れるほどの花びらが枝葉に咲いて、それが散ると、地面も川も一面が薄いピンクに染まるの。それは幻想的で美しいのよ……」

ふん。花の知識なんて無い俺が、それだけで分かるわけないだろう。
不機嫌な顔になった俺の顔を覗き込み、「怒ったの?」と彼女が囁く。俺はまたその唇を……。

間もなく……初雪がやってくる。

 

 


 

 

別れは、突然だった。

珍しく窓が閉まっている。留守なのか……と思った。
雪の日でも、彼女は窓を開けて待っていた。だから変だとは思わなかった。それが二回続いた。

三度目に閉まっているのを見た時、流石におかしい、と思った。
玄関に回ると、ドアに小さな紙片が留められているのが見えた。俺は嫌な予感がした。駆け寄って破り取った。

たった一行だけの走り書き。俺には読めない異国の文字。
「な…んだよ……、あんなに話せて書けないわけないだろ……」
けれど想像はつく。恐らく、当たっているだろう。

別れの言葉すら教えてくれないのか……。

俺は紙片を握り締め、アパートの管理人室のドアを叩く。最後の頼みの綱だった。

初老の男は怪訝な顔で俺を見据え、急な事情で帰国することになったらしい、とだけ教えてくれた。
俺は、ヴァイオリンケースを胸の前で抱え込み、雪のちらつくラインの川沿いを当てもなく歩き続けた。

名前も、年齢も、国籍も、大事なことは何ひとつ知らない。彼女の心の内側さえも……。
追いかけて問い詰めることすらできない。
なのに──
自分でも意外なほど冷静だった。涙も出なかった。薄情なものだと思った。

突風が紙片を飛ばし、あっという間に雪に紛れて見えなくなった。
彼女の国のサクラという花びらが散るように、彼女の姿も消え落ちていくのだろうか……。

四月にはまだ遠い。






二月に入って最初の日曜日、親父がいきなり封筒を寄越した。

「何だよ? これ」
「お前の新しい学校だ」
「はぁ? いくら学校を変えたからって、俺の気持ちは……」
「無駄な台詞を吐く前に、中を見ろ」

こういう言い方が気に食わない。俺は、がさがさと封筒を開ける。

「聖……ゼバスチアン? ──音楽学校?」
「場所はレーゲンスブルクだ。行く気があるなら、試験は二週間後だそうだ」

青天の霹靂だった。
一体全体、どういう心境の変化なのか。
にわかには信じ難かったが、下手なことを言うと元の木阿弥になりかねない。藪は突かないことにした。

「……ありがとう」

親父の目が丸くなる。
ふん……、俺だって素直になる時くらいあるさ。
とにかく、奇跡だ。
逸る気持ちを抑えられず、外に飛び出すと、街中が喧騒に包まれていた。

そうだ、今日はカーニバルだった。すっかり忘れていた。

ドイツの三大カーニバルの一つ、断食の前夜祭ファスナハトと呼ばれるマインツのカーニバル。
仮面を付け、仮装した人々が至るところに溢れ、歩きながら陽気な歌を歌いだす。
見上げれば、風船と紙ふぶきが宙を舞う。歓声とビールの泡と、子供たちの笑い声。

「母さん母さん! ねえ似合う?」

一際高く響く声に、俺は思わず振り返った。
まるで花びらが舞うように白いワンピースを翻し、くるくる回る小さな姿が通り過ぎた。紙ふぶきをくっつけた金色の髪が弾むように揺れている。

「ねえ母さん、次から『ハンガリー狂詩曲』をやってみようって先生に言われたんだよ。すごい?」

人波に飲まれていった後ろ姿を、俺はぼんやりと眺めていた。

いつまでも……。

理由は、分からない。


 

マインツ大聖堂

 

 

どうやら、少しうなされていたようだ。
ユリウスが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「クラウス、どうしたの……? 怖い夢でも見た?」
「ああ……」
声が掠れていた。
「嘘、本当に?」
「ああ、本当だ。……慰めてくれるか?」
言いながら、泣きそうになる。
「うん……、いいよ」
「……ダンケ」

どんな夢か、訊かないのか?
お前らしいな……。

「よしよし……怖かったね」
白い手が、くしゃくしゃと頭を撫で回した。
「……」


だから、お前は子供がきだって言うんだ。
ったく、そんな色っぽい瞳をして、一瞬で俺を悩殺する癖に。

「ん? まだ足りな……んーッ!?」
「ぜっんぜん、足りないね」

俺は彼女の顎を片手で捉え、唇を塞ぐ。愛らしくて柔らかなそれを。
それから、華奢な躰に覆い被さり、碧の潤みに蓋をした。長い睫毛が手のひらを擽る。

「クラウス? 見えないよ!」
「ばっかやろ。そんな目つきで俺以外を見るな」
「なんで? ここにはあなたしかいないじゃない。手をどけてっ!」
「よしよし、じゃねえんだよ。俺をいくつだと思ってるんだ、え?」
「だって……、もぉう顔を見せてよ!」
「今から、大人の慰め方を教えてやる……」
「え……、やだっ……んん……」

両の眼を塞いだまま唇を奪う。何度も。執拗に。
強固に閉じた桜色の蓋は、あっけなく開き、甘やかな蜜を湛えて俺の侵入を許した。


クローバー



もしも名前を知っていたら、もっと鮮明な記憶を刻んだろうか。
俺の心の奥底に、一滴の滲みを残しただろうか……。

たぶんそれは関係ない。聞いていようが無かろうが。

俺のゆく道に、稲妻のように降りてきた金髪の天使が、日毎色づくように瑞瑞しい出逢いをくれて、俺の記憶を塗り替える。

これからもずっと………



 

 

トランプダイヤタイトルの曲を聴いていたら、よせばいいのによせばいいのに……浮かんでしまったエピソード。流れるようなメロディと共に過ぎ去った甘酸っぱい彼の思い出(やっぱり年上だよね)。
 

トランプクローバー彼の年齢は14~15歳位の設定。


トランプスペードクラウスの年齢を決めると、自ずとユリウスの年も決まる。そうなると、12歳のユリウスに「ハンガリー狂詩曲」が弾けるのか? と疑問が。

運が良いことに、pixiv掲載当時、ピアノ専門のフォロワー様がいらっしゃいました。その方にお尋ねしたところ、「天才的な技能を持つ子供なら可能である」という返事を頂きました。実績に基づいた的確なアドバイスが本当に有り難かったです。

 

むらさき音符彼女が弾いていた曲むらさき音符

 

 

おまけ

 

マインツの信号機。「Mainzelmänchen(マインツェルメンヒェン)」というドイツ公共放送局のキャラクター音符 可愛いハート