──行ってしまった……、今度こそ本当に……。

ミュンヘン行きの汽車を、馬で一心不乱に追い駆けた。

途中で力尽き、地面に投げ出された。

必死でクラウスの名を叫んだが……、彼には届かなかったようだ。

暫くして、乗ってきた馬に起こされ立ち上がる。

「おまえ……ごめんよ、めちゃめちゃに走らせた……。けれど分かっておくれ……ああ、ぼくは……」

 

ユリウスは、労わるように馬の背を撫でさする。

 

もうこれで二度と……、二度とあの温かい両のかいなに抱かれることはないのだ……。

生まれて初めて愛した人の……。

止め処なく流れる涙を拭う気力すら無く、ユリウスは馬を引き、レーゲンスブルク駅までとぼとぼと歩を進めた。

いったいどれくらい歩いただろうか……。
漸く駅に辿り着き、馬を持ち主に返し、憔悴しきった顔をふと起こすと……、そこにダーヴィトが待っていた。

「……ダーヴィト……」

「ユリウス……、逢えなかった……のか?」

彼の顔を見た刹那、ユリウスの目から枯れたと思っていた涙が、みるみるうちに溜まっていく。

そして……、気がつくと、ダーヴィトの胸のなかにいた。

 

 

 

「夕方のミュンヘン行きに乗るはずだ。今ならまだ逢えるかもしれない」

そう言って彼女を送り出したが、どうしても気になって、僕はレーゲンスブルク駅に向かっていた。

数時間後、馬を連れた彼女の姿が駅の向こうから現れた。

彼女の顔はとても青白く……、いつもは綺麗な碧の瞳は真っ赤だった。

僕の顔を見た彼女は、その目から大粒の涙を溢れさせ、今にも倒れそうに僕のところへ、

慌てて抱き止めて……、

 

気がつくと、僕は彼女を抱き締めていた。
 

 

彼女は泣いて泣いて……、このまま泡になって消えてしまうのではと思うほど儚げで……、とても放っておけなかった。

僕は彼女の肩を抱いて、寄宿舎の部屋に連れて帰った。


それから……、彼女に口づけた。

やつが戻って来ないと泣いていた、雪の日以来の二度目のキス。

あのときと同じ、柔らかくて吸い付くような彼女の唇。

彼女は抵抗しなかった……。


その夜……、僕は彼女を抱いた。

 

 

 

 

嫌だと言われたら、すぐにでも止めるつもりだった。

やめて、と泣き喚かれれば……。

だけど彼女は……、

僕の唇が首筋に降りていっても……、左手が躰の稜線をなぞっても……僕のなかで小鳥のように震えているだけだった。

毎日、追うように見ていた彼女の制服姿。

それは、まるで黒い鎧をまとっているかのようだった。堅くて外れない強固な鎧……。

それが今、僕の前で薄衣うすぎぬとなった。

彼女の白く靭やかな肢体は、想像していたよりも遥かに細く、きつく抱き締めたら折れてしまうのではないかと思うほど華奢だった。

僕は白磁の陶器のように滑らかな彼女の頬に、喉もとに、美しく窪んだ鎖骨に……、そして白い胸に恍惚とし……、唇を落としていった。

彼女の存在を確認するかのように、ひとつ、またひとつ……。

彼女は時折、やつの名を呼んでいた。

消え入るような声で、切れ切れに……クラウス、クラウス……と。

彼女も、そうやってやつの存在を確かめていたのだろうか。

どんなに手を伸ばしても、届かなかった想い人……。

 

 

 

 

それは僕も同じだった。

初めて彼女を見た日、ひと目で僕は虜になった。

パートナーになれたときは心の底から嬉しかった。

彼女がやつに惹かれ始めたのが分かった時は、胸が掻きむしられる思いだった。

あの雪の日、狂ったようにやつを捜す姿に嫉妬し、唇を奪い……、彼女が女の子だと気づいて愕然とした。

そして、想いは確信に変わった。

しかし、どんなに気持ちをぶつけても、彼女は僕の腕からするりと逃げていく。

彼女を追った目線の先には、いつもやつがいた。

カーニバルで怪我をした手首に僕が口付けた瞬間をやつに見られ、哀れなほど動揺していた彼女。

理由も分からずやつに避けられ、堪え切れず僕の胸で泣き崩れた彼女。

その頃から、僕の心は少しずつ変わっていったのだろう。

想いが実らないのであれば、せめて、出来うる限り彼女を支えられる男でいよう。

やっとの思いで立っている、薄くて脆い硝子のような彼女の涙を受け止められる存在で……。


なのに今、彼女は僕の腕のなかにいる。

絶望に打ちのめされ、悲嘆に暮れ、僕に身を任せ、

漸く羽を休めた小鳥のように傍らで眠っている。

彼女が自分の腕のなかで、ほかの男の名を呼んでいても、不思議と気持ちは穏やかだった。

それでも、やつには聞かせなかったであろう……、幽かに漏れ零れた甘い吐息……、けぶるような長い睫毛の隙間から覗く、まだ赤みのとれない碧の瞳……。

堪らなかった……。


ユリウス……、君の心が誰にあるかは、よく知っている。

僕はやつの代わりでも構わない。

それで、君の精神が少しでも救われるのであれば……。

いいんだ……、ユリウス……。


 

 

 

奈落の底に突き落とされる程の悲しみに打ちひしがれ、涙で霞んだ瞳に心配そうな顔をしたダーヴィトの姿が映ったとき、ぼくの足は自然に彼のもとへ向かっていた。

初めてキスをされたとき、驚きと怒りに震えたが、何故か嫌悪感は抱かなかった。

だから、パートナーも解消しようと思わなかったのか……。

クラウスがミモザの香りを残して去っていったときも、カーニバルの後、突然避けられ動揺していたときも、気が付けば自然に……、寄り添っていてくれた彼。


──誰でも良かったわけではない。

もしも、駅で待っていたのが別の誰かだったら、気力を振り絞ってでも一人で家に帰っただろう。

彼だったから……、ぎりぎりまで保っていた最後の糸が切れたのだ。

口づけをされたとき、抵抗しようと思えばできた。

それくらい優しい暖かなキスだった。

そのあとのことも……。

ぼくのことを女だと知っていたのには少なからず驚いたけれど。

彼に身を委ね……、彼の肌の温もりを感じると……、氷のように凍えた躰が溶かされていく感覚に落ちていった。

今、この温もりから離れたらどうなるか分からない……。

それくらい、ぼくの精神は崩壊寸前だった。

意識が飛んでいきそうななかで、知らず知らずのうちに……、ぼくは幾度となくクラウスの名を呼んだ。

……彼は何も言わなかった。

何も言わずに……、ぼくの躰を抱き締めた。

強く。優しく……。

いいんだ、ユリウス……いいんだよ、と言ってくれているようだった。


いつだったか、愛していた少女いとこがいたと話してくれた。

彼女が亡くなったとき……、彼も味わったであろう絶望感は、今のぼくと同じだったろうか……。

 

 

 

「……ありがとう……、ダーヴィト」

翌朝、その一言だけ残して彼女は帰っていった。

頬には赤みが差し、真っ赤だった瞳の色も、いつもの碧に戻っていた。

帰り際、僕は彼女に伝えた。

──やつも君が女だと知っていただろう、と。

そう言わないと、やつに対してフェアじゃない気がしたからだ。

彼女は僅かに目を見開いたが、すぐにその長い睫毛を伏せた。

微かに揺れた瞳から光って見えたのが、涙だったのかどうかは分からなかった。

 

 


 

彼女とは……、その夜一度きりだった。


その後、数多あまたの不幸が彼女に降りかかり、何度、彼女を抱き締めようと思ったか分からない。

だが、彼女は、二度と僕に縋ってはこなかった。


僕がいとこを亡くしたときと同じような状態に彼女が陥ってしまうのではないか、と怖れた。


あの晩、僕は彼女に、昔の僕を重ね合わせたのかもしれない。

……けれど、彼女は持ち堪えた。



数か月後──、彼女は何も告げずに旅立った。

やつを追って行ったのだ。

無窮の谷間からさえ、彼女をつかまえるやつの声。

彼女と肌を合わせても……、それは変わらなかった。

分かっていたことだった……。


彼女がやつに逢えて……、

いつか二人に再会できる日が来るだろうか。

 

一年が過ぎ、五年が経ち──、
僕は、今も時々、やつの傍で微笑む彼女を想像する。
風に乗り、空を越え、天に祈りを届けるように。

そして遠い未来、本当に二人と会えたなら、

その時は……、あの夜のことは墓場まで持っていく秘密だ。


やつの性格を考えれば、言わずもがなだが……。


 

 

 

【作品解説】

 

2018,5月pixiv投稿。

 

もしも、ミモザナイトが無かったら、枯れ葉舞い散る抱擁が無かったら。

 

どれだけのファンがこの一夜のことを想い、涙したことでしょう。

そして、どれだけの二次作家様の創作欲を掻き立てたことでしょう。

それを事もあろうにバッサリ切った・・・ハサミ

しかも初投稿から一ヶ月もしないうちにぶち込んだ。

何を考えていたのだろうか、この頃は・・・記憶にございません。

 

全くの個人的見解ですが、私のなかでクラウスの次にユリウスの相手として選ぶなら、レオニードでもイザークでもなく、ダーヴィトでした。

クラウス『てめーーーーーっ!!!』ごめん、ごめん、ごめーーん!
(当時のキャプションより)

 

右上矢印この考えは今も変わっていません

クラウス「てめーーーっ!!!」

・・・だからぁ、続編書いたじゃん鉛筆(次回上げます宝石赤)。