男が一人、木蔭にしゃがみ込んでいる。

足もとは、一色の濃緑こみどりだった。濃淡も、影も無い。
凭れている樹肌きはだに耳を寄せれば、瑞瑞しく滴る水音が生命いのちの息吹を感じさせる。
しかし、辺りには、一弁ひとひらの花も無い。

 

見上げれば、果て無き青。
雲という存在の無い場所で、太陽は容赦なく己を照らす。光が全身を透過する。
けれど、不思議と暑くはない。

この世界にも、季節というのはあるのだろうか。
あの日は──そう、夏だった。もう、遠い昔のことのようだが……。


ふと。
花が香った気がした。
背後から。

草を踏む微かな音。
此処に来て初めての、自分以外の気配。
男は振り向くと、自然と顔を綻ばせた。


「やあ」
乱れもつれた黄金の髪が──斜め45度の角度から自分を見下ろしている。
「意外と、早かったね」

「意外と……だと?」
愛しい声は、尖っていた。

「あれ? なんか、怒ってる?」

自分を見上げながら、能天気に微笑む男を、女は思い切り睨みつける。
そして、殆どぶつかるように男に突進していった。

「うわっ!」

二人同時に草地の上に倒れ込む。それでも女は、男の首に抱きついたまま離れない。
渾身の力を込めて。

「く、苦しいよ……オスカル」
男は、喘ぐ。
「死んじゃう、よ……」

「煩い! お前はもう死んでいる」

「おい」
男は思わず吹き出した。
「それを言っちゃあ身も蓋も無いだろう」

その時、不意に女の顔が歪み、みるみる蒼い瞳に涙が溜まった。
男は黙る。

「ア…ンド…レ……」

滑らかな白桃の頬を雫が伝った。幾筋も。
天上を流れる川よりも綺麗な水に違いない。

厚い胸の上で、華奢な肩が震えている。男は、その震えごと、彼女の躰を抱き締めた。
脆弱な嗚咽。
まるで小動物の鼓動のように。

あの日──遠退く意識の端で聴こえた慟哭。それは消えない沁みのように、今もまだ胸中を去来する。

──命など惜しくない、お前を護る為ならば。

なんとおごった考えだったか。独り善がりで、短絡的で。
もう二度と、あんな声は聴きたくない。

アンドレはずっと無言で、金色の頭を撫で続けた。
湿った吐息が耳もとを擽る。
彼女の部屋のベッドの上で、一度だけの契りのなかで、幾度となく肌を掠めた甘やかな微熱。
何も変わらない。
その温度も……。
その匂いも……。

「あぁ……、情けないな」
「何が……だ?」

「あれだけお前に、生きろ──と言っておきながら、このざまだ」
オスカルの背中を支えながら、
「結局、一日も、持たなかった」
アンドレはゆっくりと身を起こした。
「……逢いたかった、オスカル」
それから、二つの瞳が、彼女の顔をじっと見つめる。

「見えて……いるのか?」
恐る恐る、オスカルが訊いた。

「うん」
アンドレは即答する。
「此処では、病も傷も無かったことになるらしい」

彼女の指が昨日まで閉じていた筈の瞳に触れた。
漆黒と瑠璃の虹彩が互いに揺らぐことなく絡まり合い、
二人は、一日分の口づけを交わす。

一日分の……、

一日分では足りなかった。

「俺、此処に来たら、下界の欲望は消えるものだと思っていた」
ぽつり、と本音が零れた。
「純粋な感情だけが……、残るのだと」

美しく妖艶で、それでいて未だ何もらないふうな澄んだ瞳を前にして、男は言い淀む。

「何が言いたい?」

ほら、思った通りの返り討ちだ。

「うん……、だからね……」

「──わたしだって同じだ」
「ずっと、お前の熱が欲しかった」
「お前に触れたくて、お前に触れて欲しくて……、焦がれて焦がれて、夜も眠れぬほどに……」
「それが──こんなところに来たくらいで、ちょっと上に昇ったくらいで、うやすやすと消え失せて堪るものか」

思った以上の弓矢が連続で飛んでくる。

「わたしをこんな躰にしたのは、お前だ、アンドレ」
「あの……、オスカル?」
「だから今直ぐ、責任を取れっ」

男は、絶句した。

「それは──上官命令?」
「わたしはもう、お前の上官でも主人でもない。……妻としての命令だ」

「随分と、戦闘的な妻だなぁ」

「今さら何を言う? 良いか、アンドレ。わたしに貞淑や従順さを求めると言うのなら、そもそもこの結婚は」

男は──遂に、弓を取り上げた。

その愛すべき、終わりの無い減らず口を。

重なり合う躰が柔らかな草地に沈む。
傷ひとつ無い雪肌を、男の掌がまさぐるように滑っていく。
貪欲な情動が、
ほとばしる火花が、
清冽なそらに幾重にも色をまぶす。

ふと。
彼女の髪から一弁ひとひらの花弁が落ちた。

気が付けば──濃緑の草原は、一面の白い絨毯になっていた。
一本の樹木から、尽きることなく降り積もる花。
風に舞うヴェールのように。

花を抱いているみたいだ……と男は思う。

花に抱かれているみたいだ……と女は思う。

もう誰にも邪魔されることのない、

生も死も無い、

天上の花園郷で──。


この地でも、ゆっくりと、
同じように季節は巡り、
陽は沈み、
星は瞬き、
月は姿を変え、


そして、朝が二人を迎えるだろう。



アンドレ、見ろ。──夜明けだ。

ああ……、美しいな、世界は。



 

※こちらは、今年のオスカルさま命日(7月14日)に「pixiv」に投稿したものです。

前作で不完全燃焼を起こした方用処方箋🌹(作者も含む)

 

イメージソング『夜明けのうた』宮本浩次🎵 

 

 

 

 

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