『外伝/天才ヴァイオリニスト VS. シェイクスピア俳優~前・後編』のスピンオフです(外伝のスピンオフなんて、ややこしくてすいません)。
~チェロ科教師アルバート&ピアノ科講師Hironeの犬も食わない劇場①~
「アルバート先生ぇ、この指がぁ、うまく届かないんですけどぉ」
偶然通りかかったレッスン室から、(キャンディス(氷砂糖のシロップ漬け)を一瓶溶かしたような)どろどろの甘ったるい声が聴こえてきた。
ぴっきーん。
「君、指が間違っているよ。ほら、この弦は人差し指で押さえるんだ」
「ええっ? 私、指が短いから無理ぃ」
ぴきぴき。。
紘音は、危うく持っていたピアノピースをくしゃくしゃにしそうになる。
「じゃあ、軽く指の運動をしてみよう。両手を膝の上に置いて、親指から順番に上げてみて」
「あぁん、薬指が上手く上がらないぃ。先生が上げてみてぇ」
ぴきぴきぴき。。。
──幼稚園児かっ!
キーンコーンカーンコーン。
紘音は(短い)爪が食い込むほど拳を握りしめ、その場を離れた。そのとき彼女と擦れ違った生徒は、普段とはかけ離れた般若のような表情に「ひいぃっ!」と凍りついたに違いない。
(つづくのか?)
~チェロ科教師アルバート&ピアノ科講師Hironeの犬も食わない劇場②~
昼休み──、三階への階段を上り切った時、彼は嫌な予感がした。
廊下の奥から聴こえてくるピアノの音色が、明らかに不機嫌MAXだったからだ。
絶対音感を持つ男、ウィリアム・アルバート。
──いったい……何が彼女を怒らせた?
二の足を踏んだところで、事態が好転するわけではない。アルバートは諦めの溜息をつき、目的のレッスン室へ歩を進める。
ドアを開けた途端、鼓膜を突き抜けそうなfff(フォルティッシッシモ)。※意味/めたんこ強く。
で、で、で、で────ん。。。
で、で、で、で────ん。。。
(『運命』/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)
アルバートが部屋に入っても、彼女のピアノは止まなかった。
「ひ、紘音……」
止まないピアノはない。アルバートは辛抱強く待つ。
と思ったら、紘音は間髪入れずに、『幻想即興曲』を叩き始めた。
──ああ……。
仕方なく、彼は彼女に近づいていく。すると、ぴたりと演奏が止んだ。
……無言。
アルバートは覚悟を決めて尋ねた。
「あの、なんか……怒ってる?」
(あっつあつ💗……の前に、つづく)
~チェロ科教師アルバート&ピアノ科講師Hironeの犬も食わない劇場③~
「あの、なんか……怒ってる?」
十秒の沈黙が永遠にも思えた後、
「貴方、生徒に対して、もう少し毅然とした態度を取れないの?」
零下30度の声で紘音は答えた。
「え……?」
勘の鋭い男、ウィリアム・アルバート。
──聞かれていたのか……。
彼が言葉を発せないでいると、紘音はすっくと立ち上がり、無言のままドアへ向かう。
「紘音っ!」
間髪入れず、アルバートは背後から彼女を抱き竦めた。
「愛してる」
やる時はやる男、ウィリアム・アルバート。
次の瞬間、紘音の体温は、零下30度から摂氏40度まで急上昇した(死ぬぞ)。
「あの生徒が"ああ"なのは、いつものことだって君も知っているだろう?」
「"ああ"って何です? 解っているなら、教師としてきちんと指導していただかないと困ります」
人は何故、腹を立てると丁寧語になるのだろう。
「それがなかなか、ノレンニ、ウデオ……シヌカニ……」
「こんな時に覚えたての日本語なんか使わないでっ!」
(大して進展もないまま続く)
※紘音が日本から持ってきた暖簾。これを見てアルバートは↑のことわざを覚えた。
~チェロ科教師アルバート&ピアノ科講師Hironeの犬も食わない劇場④~
彼の部屋に備え付けられている低めのソファを彼女は気に入っていた。
柄はグレィとオフホワイトのストライプ。ファブリックならではのソフトで柔らかい座り心地。
難点は、二人で座ると、ぎちぎちだということだ。
明らかに持て余し気味の長い脚を紘音は一瞥する。横に並ぶ自分の脚は、まるで子供だ。
「貴方には、このソファは小さいんじゃないの?」
当て擦りのように紘音は言った。
「そうでもないよ」
アルバートは穏やかに微笑む。
「いい加減買い替えたら? そのうち腰を悪くするわよ」
「だけど僕に合わせたら、君が宙に浮いてしまうだろ?」
「し、失礼ね。平気よ、高いヒールを履けば」
紘音は自分の足もとを見る。
「無駄だよ。僕が直ぐに脱がすから」
「は?」
「勿体ないよ。せっかく綺麗な爪先をしているのに」
「それ、嫌味?」
呆れた顔でアルバートは紘音を睨み、
「何故君は、いつも自分の容姿を卑下するんだい?」
そう言って、低いヒールのパンプスを両足とも脱がせた。
「あの……、ウィル?」
アルバートは美しい素足を惚れ惚れと眺めると、この上なく優しい目つきで恋人を見つめる。
「おいで」
魔法の呪文が彼女を呼んだ。
紘音は頷いて立ち上がり、彼の膝の間におずおずと身を沈める。
逞しい体躯に華奢な躰がすっぽりと包まれた。
「ほら、こうすればソファも狭くない」
「そう、ね……」
チェロ奏者特有の硬い指先に髪を梳かれ、なんだか眠くなってくる。
休日の春の午後の昼下がり。
その日から、彼の部屋の低めのソファは紘音のお気に入りになった。
(指をくわえたまま、つづく)
~チェロ科教師アルバート&ピアノ科講師Hironeの犬も食わない劇場⑤~
「アルバート先生~、この指がぁ、うまく届かないんですけどぉ」
アルバートは大きな溜息をつく。
「君、演奏の前には欠かさず指の運動をしておくように、と教えた筈だよね?」
「えっ? そんなことおっしゃいましたっけ?」
生徒はしなをつくり、得意の猫なで声を出す。
「ごめんなさぁい。あたし、物覚えが悪くってぇ。そうだぁ、今度先生のお家で、厳しく個人レッスンしていただけません?」
アルバートは二度目の溜息を漏らす。
「あのね、一人の生徒だけに、そんな特別扱いはできないよ」
「だってぇ、このままじゃ進級試験に受かりそうもないんですもの」
「それには一に練習、二に練習だ。はい楽譜を開いて」
アルバート毅然とした態度で生徒を見据えた。その視線を生徒はハートの目で受け止める。
「ねえねえ、アルバート先生、前からお訊きしたいと思っていたんですけれどぉ」
「何だい? 手短に頼むよ」
アルバートは三度目の溜息をついた。
「先生は、どなたかお付き合いしている方はいらっしゃるの?」
「お付き合い?」
「うんもう、鈍いんだからぁ。恋人はいらっしゃるの? ってお尋ねしているんです」
「ああ……」
アルバートは納得したように頷くと、素早く立ち上がる。そして出口に向かって歩きだした。
「先生? どちらへ……」
怪訝な顔で、生徒はドアへ視線を移す。
彼が突然ドアを開けたので、紘音に身を隠す暇は無かった。
気配を察する男、ウィリアム・アルバート。
呆然と立ち尽くす彼女を見つけて、アルバートはくすっと笑う。それから彼女の手を引いた。
「な、何するの? ウィル」
その小さな叫びを生徒は聞き逃さなかった。
「ウィル──ですってぇ!?」
生徒は膝から楽譜が滑り落ちるのも構わず立ち上がった。
──しまった……。
紘音は咄嗟に口もとに手をやったが遅かった。
「ミス・紘音」
吊り上がった細い眉毛が詰問する。
「今、アルバート先生のことを何てお呼びになりまして?」
「いえ……。その……」
「いいから君は黙ってて」
アルバートは紘音を護るように肩を抱いた。
「紹介するよ、彼女が僕の恋人だ」
彼は朗らかに断言する。
「それとここだけの話だが、もうすぐプロポーズもするつもりだ」
「は!?」
生徒と紘音が、ほぼ同時に目を剥いた。
アルバートは肩を抱いた手を緩めずに、にっこりと微笑んだ。
「他に、質問は?」
(有無を言わせず、完)
おまけ*『可惜夜~ATARAYO~』
初めての二人の朝は、初夏だった。
「今夜は……、帰したくないな」
漸く耳に馴染んできたドイツ語が、鼓膜を通り抜け、皮膚の下の血管を逆流する。
耳鳴りがしそうだった。
「返事は? Hirone」
まだ、名前を呼んでいいなんて言ってない。
そう思いながらも、おずおずと頷いた。
初めて貴方に抱かれた夜、
薄暗闇に幾度となく、私の名前が浮遊した。
月が暴く。
剥き出しの二つの影を。
貴方に呼ばれて、
ゆらゆら揺らぐ私の名前を。
「そんなに……」
「そんなに? 何?」
そんなに名前を呼ばないで。
貴方の声で、月が気づいて、
冴え冴えとした蒼白い眼差しで、
その熱で、
私を融かしてしまいそう……。
夜が明けたら、名前の由来を教えてあげよう。
──ねぇウィル、Hironeのneはね……。
夏の朝なんにもあげるものがない、あなた、あたしの名前をあげる(佐藤弓生)
※可惜夜(あたらよ)/明けてしまうのが惜しい夜🌙
『オル窓』×『キャンディ』コラボの再掲はこれで終了です。
まだ2年前なのに、既に懐かしかった。
リバイバルにお付き合い下さり、ありがとうございました
(2024,9)