「アンドレ、後で、わたしの部屋へ……」
　さも仕事の用件のように、淡々と告げる。違う──他に言い方を知らないだけだ。殿方の誘い方を。誘惑の何たるかを。
　そもそも女から誘っても良いものなのか、ということを。

　愛を誓い合ってから、二人の間に時間は無かった。
　告白を受けた瞬間、脳髄深く埋め込んでいた鍵の外れる音が聴こえた。生涯開けぬ、と神に誓った箍たがという名の重い鍵が。
　それは、彼女も同じだった。
　生まれて初めての愛を確かめ合う口づけは──ただ純粋に互いの戀情れんじょうを惜しげなく与え合う口づけは──漸く女の、女としての、遅過ぎるくらいの蕾を綻ばせ、水を欲し、蔦を伸ばし、男を求め、男に搦みつかんとする。
　己の心なのに制御が効かぬ。こんなことは初めてだった。
　全身に熱湯を浴びせられたかのような愉悦と戦慄を繰り返し──繰り返し。
　貪る。
　羨望と妬みの狭間で幾度となく揺れた男の筋肉を。
　貪る。
　なぞるところすべて、軍服でさえ隠し切れぬほど柔らかく変貌していく女の稜線を。

　ぼんやりと死を覚悟しながらも、本能では拒絶している。生きろ、という正論を強要する。殻を捨て、ひた隠しに隠している生き様を見せてみろ、と。
　眩暈がしそうだった。
　幼い頃、全速力で草原を駆け抜けた爽快感とは違う。
　夏の頃、切っ先が風を切るたびに覚えた恍惚感とも違う。
　死んでもいい、今ここで。
　死んでもいい、今ここで……？

「本当は、もっと溺れさせたいよ」
　長い間、燻らせ続けた心の澱おりを男は吐露した。
「泣かせて、鳴かせて、溺れさせ──何処までも二人で沈んでいきたい。誰にも……神にすら、声が届かぬ奈落の底まで」
「なっ……、何という罰当たりな……」
　瞬時に、彼女の頬が紅潮する。
「神への……冒涜だぞ、アンドレ」
「そんなに赤くならないで」
　見えずとも、耳朶を掠める吐息と肌の熱で彼には分かる。
「お前の緊張をほぐしているつもりなんだけど……」
「そんなものは……」
「逆効果だと？」
「分かっているなら……っあ」
　吐息の温度が僅かに上がった。
「もう、黙って──」

　貪る。
　生き急ぐように。
　貪る。
　明日を遮断するように。

　奈落どころではない。深海へ身を投じ、際限なく落下していき、底のない、光さえ透過しない水の中を二人で漂う。
　透明なのか濁っているのかも判らない、純粋なのか邪まなのか──その審判は誰が下すのか。
　王か？　神か？　悪魔か？
　沈んでいく。
　沈み続ける。
　落ちていく。
　堕ちていく。

　どの世の神が唱えていただろう──呪いと信仰は紙一重だと。

～＊～＊～＊～

「くだらないねえ……」
　誰も知らないはずの秘密の場所。ひっそりと、けれど熱く抱き合う恋人たちの背後から、無遠慮な嗄しゃがれ声が割り込んだ。

～＊～＊～＊～

　貴族と平民。どれほど愛し愛されようと、この世で添い遂げることは許されない。
　だが、しかし……、たとえ黄泉國よもつくにでの永遠を選択しても、固く結ばれた糸は無情にも断ち切られてしまうのだ。
　幾つもの森を抜け、果ての果てまで、二頭の馬を走らせた。人の目の消え失せるところまで。僅か数刻の逢瀬の為に。
　そこは二人だけの秘密の森。滑り落ちるように馬を下り、せわしなく重なる影。
　事実、気が立っていた。彼も彼女も。道の途中で、何度手綱を引き締めようと思ったか。

「そろそろ、戻らなければ……」
　ふわりと、黄金色の頭が離れる。束の間の愛おしい重み。
「ああ……そうだな」
　駄々をこねても始まらない。我が儘など無意味だった。それでも……、0.1秒の許しを彼は乞う。
「オスカル、もう一度だけ……、口づけを」
　刹那、彼女は酔った。切なく焦がれる甘い声に。
　漆黒の瞳に、情欲の露呈した己の顔が映り込む。
「わたしが……断るとでも……」
　アンドレは、差し出された唇を激しく吸った。息つく術を忘れたように。
　震えながら背中がしなる。彼女のなかの女が喘ぐ。数多の訓練で鍛え上げた呼吸と体幹を以もってしても、愛する男の前では無力だった。
　歯止めの効かぬ烈々たる情炎の前では。
　崩れる。
　躰が。
　ぐらぐらと。
　落としてはなるものかと、
　掬いこむ。
　両の腕が。

　その時だった。
「くだらないねえ」
　まるで蟾蜍ひきがえるが潰れたような下卑た声。
　瞬間、二つの躰が跳ね退いた。
「だ、誰だ⁉」
　カサリ、と葉擦れの音がして、繁みから背中の曲がった白髪の老婆が姿を見せた。頭から襤褸ぼろを纏い、皺だらけの手で杖を突き、二人の傍へ近づいてくる。
「人間ていうのは、こんなにくだらなかったかねぇと言っているのさ。もっと賢くて骨があると思っていたよ。百年前、こんな愚かな軟弱者どもに、あたしたちは根絶やしにされちまったのかねえ」
「お前は、いったい何者だ？」
「あたしは、魔法族のたった一人の生き残り。最後の魔女さ」
「お前が魔女だと？　いい加減な嘘をつくな！　たった今、その口が、根絶やしにされたと言ったではないか」
　オスカルは、老婆を睨みつけた。
「嘘なもんかね。どんな緻密な謀略にも穴はある。完璧な計画などないってことさ。蜥蜴とかげが自ら尻尾を切って、逃げ道をつくるようにね」
　老婆は不敵な笑みを浮かべ、先を続ける。
「女の身で剣つるぎを扱う。貴族の癖に平民に懸想する。何もかも歪んでいるよ。生き様も、感情も」
「何だと⁉」
「オスカル、よせ！」
　老婆に詰め寄ろうとするオスカルをアンドレが押し止めた。
「彼女を侮辱するのはやめてくれ！　最初に愛したのは俺だ。俺なんかに出逢わなければ、彼女はもっと幸せに……」
「アンドレ！　何だ、その言い方は？　まるで今のわたしが不幸みたいではないか。何度言ったら分かるのだ？　身分など関係ない！　誰よりもわたしの心を満たしてくれるのは、お前だけだと……」
　しわがれた嘲笑がオスカルの言葉を遮った。
「やめておくれよ、そんな観るに堪えない三文芝居は。そうかい、そりゃあ辛かろう。この時代に生きている限り、どう足掻いてもお前たちに未来はない。ここで出会えたのも何かの縁。いや、因縁かもしれないね」
　老婆は懐に手を入れて、今にも折れそうなみすぼらしい杖を引き抜くと、その先端を二人に向かって突き出した。
「なまじ人間同士でいるから、いつまでもうじうじ思い悩むのさ。お互いに、異種の貌かたちに変わればいい。そうなりゃ諦めもつくってもんだ。そうだろう？」
「何を……、する気だ……」
　逃げる間は、与えられなかった。かつて、魔女の種族がそうだったように。
　閃光が二人に襲いかかる。
　花は散り、枝葉は萎れ、樹々は立ち枯れ、地面は乾き、森は灼熱の砂漠と化した。
　そうして──
　二つの躰は、まったく別の個体に変異した。言うなれば、生命の世界と物質の世界に。

　直青ひたあおの大地に立つお前が見える。
　お前の顔が。腰まで落ちる長い髪が。
　あと少しで、手が届く。
　──否、届かない。どれだけ手を伸ばしても。
　そもそも、これは手なのか。足なのか。どちらが手なのか、足なのか。
　俺の手なのか？　脚なのか……？

　いったい此処は何処だろう？
　見えるのは空と雲と砂だけだ。
　わたしの躰は、何処だろう……？
　暑さも寒さも、風の靡なびきすら感じない。
　彼は、何処へ行ったのだろう……？
　閃光に目が眩んだ瞬間、確かに、腕を摑んだはずだった。

──わたしを離さないでくれ……！

　けれども、願いも虚しく、愛する男は忽然と視界から消えた。

～＊～＊～＊～

　広大な砂漠の真ん中に、乙女の石像が立っている。波打つほどの長い髪、美しく微笑む形の良い唇。ほっそりと伸びた腕。脚はドレスの裾を蹴り、今にも駆け出していきそうだった。
　その石像の足もとに、見え隠れするように、一匹の蜥蜴が蠢いている。片足の長さにも満たない小さな躰。
　蒼い体色。想い人の瞳の色。
「よくよく考えてみれば、人間ていうのは面倒な生き物だ。お前たちも気の毒だよねぇ。たかが身分が違うというだけで、どんなに焦がれても柩を並べることすら許されないんだからさ。いっそ、こっちの方が幸せかもしれないよ。互いの躰に張りついて、同化して、永遠に離れない。お前たちの望み通りだ。最高の末路じゃないか」
　乾燥した空気を引き裂く引きつった笑い声。姿はない。否、彼からは見えないだけかもしれない。
「あんまりだと思うかい？　ならば、元の姿に戻る方法を一つだけ教えよう。簡単なことさ。王子が姫にキスをするだけ。うんざりするほど通り一遍なハッピーエンドだよ」
　蜥蜴は頭を左右に振った。
「但し、期限は三日。何故かって？　それを超えたら、この灼熱地獄で、お前たちが持たないからさ。乙女の像は頭からひび割れ崩れ落ち、蜥蜴の躰はからからに干からびる。後は、ただ砂の下で朽ち果てるだけ」
　蜥蜴は頭を上下に振った。それから、ゆっくりと上を見上げる。微動だにしない想い人の表情を。

　アンドレは、蜥蜴になった。
　オスカルは、乙女の姿の石像になった。

　昔々の話です──
　世界で自分たちのみが絶対的な存在である、と人間が驕り高ぶっていた頃、その標的にされたのは、魔法使いという種族でした。
　彼らの長い人生に於いて、最も災厄と呼ばれた日は、何の前触れもなく訪れました。
　人間の手によって、魔法使いは片っ端から捕らえられ、一人残らず火炙りにされたのです。男も女も、大人も子供も。正当な理由は聞かされず、反駁はんばくする権利も認められず。

　それは──、月が厚い雲に覆われた夜でした。
　光の射さない森を若い男女が走っていました。今にもつんのめりそうになりながら。後ろからは、けたたましい罵声とともに複数の足音が迫ってきます。
　その男女は魔法使いで、追手である人間から必死で逃げていたのです。二人は立ちどころに追いつかれ、呆気なく捕まってしまいました。
「離せ！」
「離して！」
「観念しろ！　抵抗してももう無駄だ」
　二人は無理矢理引き立てられ、地面に突き立てられた太い杭に、一緒に縛り付けられました。
　高々と火を掲げた人間たちの目は血走り、咆吼を浴びせるその様は、まるで目の前の獲物を喰らうことしか頭にない獣のようでした。神が人間だけに与えた理性という知能は、いったい何処へ消え去ってしまったのでしょう。
　ところが、火が放たれる直前に、どういうわけか女の縄だけが緩んだのです。おそらく執行人の過信が招いた失態かもしれません。
　自由になった手で、女は男の縄に手をかけました。しかし、そんな都合の良いことが続くわけもなく、結び目はどうやっても解けません。火が放たれたのを確認した男は叫びます。
「もう間に合わない！　お前だけでも逃げるんだ！」
「嫌っ！　貴方も一緒に逃げるのよ！」
　女は聞く耳を持ちません。　
　炎はみるみるうちに接近し、頭上から火の粉が降りかかり、いつ髪や衣服に燃え移ってもおかしくない状況です。もう一刻の猶予もありません。
「離れろ！　離れてくれ！」
「絶対に嫌っ！」
「行けぇっ！」
　唯一自由の効く足で、男は、女の躰を思い切り蹴りました。女が地面に転げ落ちた瞬間、男の躰は炎に包まれ──そのなかから聞こえてきたのは、断末魔の叫びに混じった女への最期の愛の言葉でした。
「あ、い……し」
「い──」
　女の悲痛な絶叫は、凄まじい火焔の音に掻き消されました。炎は炎炎と燃え盛り、黒煙は森全体を覆うほどに濛々と立ち込めて、女の姿を人間から隠してくれました。まるで炎と化した男が、彼女を護っているように。
　炎を凝視したまま後退る女の足もとに、辛うじて焼け残った魔法の杖が転がってきました。それを素早く拾い上げると女は踵を返しました。
　それから女は逃げました。森を抜け、山を越え、果ての果てまで走りました。声が嗄れるまで男の名を呼びながら……。
　止めどなく流れる涙は天に昇り、雨を降らせ、嵐を生み、樹木も果実も動物も、すべての生命を腐敗させました。

　どれだけ這い上がったことだろう。回数など覚えていようはずもなく。
　足首から先の感覚は既にない。もしかしたら、もうすべての足がもがれているのではないか。そう思うほどだった。
　今は、何日目の何時だろう？
　太陽は、何度昇り、何度沈んだろうか？　──分からない。
　期限など、とっくに切れているのではないか。それでも、蜥蜴は上り続けた。
　前足が石像に触れるたび、じゅっ、という音がする。熱した鉄に水を垂らしたような。瞬間、足裏に焼けつく痛みが走る。未だそんな感覚があるのが不思議だった。
　想い人の唇に辿り着くのと、小さな躰が溶け落ちるのと、いったいどちらが先だろう？

──魔女の言うことは正しい。どうせ添い遂げられぬなら、いっそのこと、このまま朽ち果てた方が幸せかもしれない。ほら、今もわたしの足もとには、僅かだが、お前の躰の熱が伝わってくる。蜥蜴なのに体温を感じるのはおかしいが、恐らくそれは本来のお前の温もりなのだろう。それだけで、わたしは、こんなにも満たされている……。
　むくりと、蜥蜴の頭が起き上がる。いつの間にか眠ってしまったようだった。
　夢を見ていたのだろうか？　彼女の声が聴こえた気がした。
　蜥蜴になっても夢は見るのか。夢など見ている暇はないというのに。
　躰を奮い立たせる。
　今日が最後かもしれないのだ。
　360度、見渡す限り砂山だけの地平線に、蜃気楼のような夕陽が沈むまで。時間はない。
「しぶといねえ……」
　しわがれた声が耳に届く。空耳かもしれない。
　感覚はほとんど麻痺しているのだから。
　蜥蜴の？
　それとも人間の……？
　死を自覚した局面で、最終的にはどちらの知覚が残るのだろう。この身が干からび消失した時、同時に彼女の記憶も剥がれ落ちてしまうのだろうか。
　考えるな、今は。
　上れ。
　登れ。
　昇れ。
　全身が焼け焦げても構わない。
　頭だけ、いや顔さえ残れば。
　彼女の唇に触れて焼きつき、そのまま砂と化しても厭わない。
　藻掻け。
　死の間際まで。
　放て。
　己の生を。血の一滴までも。
　せめてオスカルだけでも、人間に……。
　烟る睫毛。蒼く揺らぐ瞳。薔薇色の頬。柔らかく誘う唇。
　もう二度と、それらを見届けることは叶わなくても。

　俺の……オスカル……。

　蜥蜴の躰が蒼白く光る。まるで魔力を帯びたように。
　最後の足が乙女の頬に達した時、蜥蜴は最後の力を振り絞った。舌が滑り出る。
　震える舌先が、石像のざらりとした唇を掠めた。微かな、本当に微かな手応え。王子のキスには程遠い無様な姿。
　次の瞬間──、蜥蜴の舌は根元から溶け消えた。皮膚片すら残さずに。舌を失くした小さな身は仰向けに落下し、乙女の胸もとのドレープに辛うじて受け止められた。
　数秒後──
　みるみる赤みを帯びる唇。薔薇色に染まる頬。瞳は蒼い光を湛え……、物質に瑞瑞しい命が宿る。
「アンド、レ……」
　先ず、声を発した。絞り出されるように。
　次に、涙が滴り落ちる。眠っている彼を起こすように。
　だが、ピクリとも動かない。
　もう一滴。
　雫は蜥蜴の全身を覆い尽くし、沁み込んでいく。
　けれども、彼は動かない。
　また一滴。
　それでも、彼は動かない。
「アンドレ……、逝かないでくれ……。お願いだ、アンドレ……。アンドレ……」

　時を打たない時計の針が動き出す──

　戻れ──
　乙女の像は、オスカルに変わった。
　時よ──
　干乾びかけた蜥蜴は、アンドレに変わった。

　互いに互いの顔を見る。髪を撫でる。頬に触れる。それから、漸く言葉を発する。
「間に合った……」
「間に合ったのか……？」
　二人は、きつくきつく抱き合った。
「良かった……。良かっ……、アンドレ……」
　オスカルの頬を止めどなく涙が伝う。
「オスカル……、もう泣くな……」
　そう囁き、アンドレは彼女の瑞々しい唇を確かめた。
　波が引くように砂漠は消える。大地には樹木が戻り、青葉が茂る。さわさわと風にそよぐ花々の香りと、柔らかな木漏れ日が恋人たちへ降り注いだ。

「何だい、何だい！　あっさりとミッションクリアしちまいやがって。だから、人間てやつは気に入らないんだよう」
「あっさりだと？　お前のせいで、アンドレは、危うく命を落とすところだったんだぞ！」
　オスカルは魔女の首根っこを思いっ切り締め上げる。
「ぐえぇっ……、ぼ、暴力反対！　と、年寄りを苛めるのかいぃ？」
「何が年寄りだっ！　この老いぼれ魔法使いめ！」
「まあまあ、オスカル。こうして俺たちも無事に人間に戻れたことだし、その辺で勘弁してやろうよ」
　魔女だろうが人間だろうが、アンドレは年寄りに弱い。
「生温い！　お前のそういうところが生温いと言うのだ！　情けも程々にしないと、いつか身を滅ぼすぞ。だから剣も射撃も、いつまで経っても中途半端で止まっているんだ」
「はぁ？　今ここで、そんなことを持ち出さなくてもいいだろう。俺だって、これでも精いっぱい鍛錬を重ねているんだ。命に代えてもお前を護り抜くために！」
　言ってやれ！
　もっとガツンと言ってやれ！
「わたしを？」
　オスカルの両眉が吊り上がる。
「はっ！　鍛錬とは、己の腕と精神を磨くのが目的だということを忘れたか。お前は根本から間違っている！」
「なっ、な、何だとう？」　
　己の油断で、石像に変えらてしまったお姫様は、すこぶる機嫌が悪かった。
　童話の中の王子は、大抵人間の姿で現れて、魔法にかけられた姫をいとも簡単に（口づけで）目覚めさせる。子供の頃、そんな童話を聞かされる度に安直だと思っていた。けれども、実際自分同様蜥蜴に変えられちゃった不甲斐ない王子を目の当たりにすると、どうにも憤りが収まらない。要するに、八つ当たりである。
「おーやおや。せっかく元に戻れたのに、さっそく痴話喧嘩かい？　人間ていうのは次から次へと忙しいねぇ」
　魔女は、へらへら笑いだした。

　魔女をパリまで連れ帰ることにしたオスカルは、仕方なくアンドレの馬にのせた。
「腹が減ったぁ！　このままでは野垂れ死ぬぅ！」と煩いからだ。
「またわたしたちに魔法をかけたりしないだろうな？」
　アンドレの前に我が物顔で座っている魔女に、オスカルは鋭い視線を投げつけた。
「安心おしよ。見ての通り、この杖はもう出がらしさ。でっかい魔力はあれで最後、ま、ウサギをネズミに変えるくらいが関の山だね」
　魔女はボロボロのか細い杖をぶんぶん振り回す。
　そのガス欠寸前の魔法で、自分たちは弄ばれたのか……。オスカルは治まりかけた怒りがぶり返しそうになる。
　その時、勢い余って、杖が魔女の手からすっぽ抜け、運の悪いことに地面に突き出た岩に当たった。
「ああっ！　杖が！」
　悲壮な声で魔女が叫ぶ。
　オスカルは慌てて馬を止め、杖の落ちた場所へ向かう。遅れてアンドレも手綱を引いた。
「大丈夫か？　オスカル」
　案の定、杖は無残に折れていた。オスカルはそれを拾い上げる。
「あーあ、真っ二つだ。これではもう修復不可能……」
　そこまで言ってから、オスカルは目を見開き、アンドレの顔を凝視した。いや、正確には、馬上にいるもう一人の人物に。だが、アンドレは気づかない。
「オスカル……どうした？」
　アンドレは訝しげな表情で、オスカルを見つめ返す。
「お前は……、誰だ？」
「やーれやれ、元に戻っちまった」
　声の主の顔を覗き込んだアンドレは、驚愕のあまり手綱を離し、
「わあっ！」
　そのまま馬から落ちそうに。
　手っ取り早く説明すると、若返った魔女がそこにいた。あんぐりと口を開け、固まっている人間たちを見据え、魔女はふうっと溜息をつく。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。杖が折れたせいで魔法が切れて、元の姿に戻っちまっただけさ」
　その姿はどう見ても20代後半か30代だった。白髪は見事な銀髪に変わり、半分以上垂れていた目蓋の下からは、綺麗なはしばみ色の瞳が現れた。

「わざわざ……老婆に化けていたというのか？」
　未だ信じられないという表情で、オスカルはゆっくりと魔女に近づき、折れた杖を手渡した。
「年寄りの方が相手が油断するんだよ。今まで何人の追い剥ぎどもを蜥蜴やネズミに変えたかねぇ」
　艶やかな唇の端を上げ、口調だけは老婆のままで、魔女は指折り数えだす。
　ひぃふぅみぃ、よ、いつ、むぅ、なな、や……、
「な、何だとぉ？」
「ま、あたし同様、今頃はみーんな元に戻ってるだろうよ」
　若返った（お肌ぴちぴちの）魔女は、いつの間にかアンドレの背後に回り（瞬間入れ替りの術）、彼の腰に腕を回し、必要以上に背中にぴたりと張りついている、ように窺える。並んで馬を走らせながら、オスカルは心なしか心がざわざわした。
　アンドレはアンドレで、まるで蚊が止まった程度のように平然としているので、尚のことムカ……癪に障った。
──まったく男ってやつは。こっちの気も知らないで……。横から蹴りを入れてやろうか。
　オスカルは殺意を込めた目で恋人を睨みつけた。

或る晩の(女同士の)会話（ワイン付）

　場所は変わって、オスカルの部屋。
　まだ宵の口なので、当然のことながらアンドレは仕事中だ。オスカルは仕方なく魔女を呼んだ。仲良くなったわけではない。そもそも初対面であんな仕打ちをされておいて、そう簡単に打ち解けられるわけがない。
　まあ、酒の相手くらいにはなるだろう。老婆でも少女でもないのだから。
　それなのに、気づいたら、思いのほか真面目な話になっていた。
「ふぅん……。この時代になっても、人間は、相変わらずつまらない小競り合いを繰り返しているというわけか」
　魔女はグラスを揺らしながら、呆れたように眉根を寄せた。
「百年前、我々の先祖が、お前たちにしてきた暴挙は弁解の余地もない。同じ人間として、本当に恥ずべきことだと思っている。だけどな、今この国では、誰もが皆それぞれに、少しでも良い風を吹かせようと必死なのだ。確かに、新しい道を開こうとすれば摩擦は起きる。それは、どうしても避けられない。お前の目には、取るに足らない小競り合いに映るかもしれないが……」
　そこで、オスカルはワインを呷あおった。
　酒を飲んで饒舌になるのはいつものことだ。でも、魔女を相手に何を語っているのだろう……と彼女は思う。
「今更、謝ってもらおうなんて思ってないよ。あんたを責めるのは、お門違いなことぐらい分かってる。そんなことをしたって、あの人は還ってこないしね……。あんたのやっていることに茶々を入れるつもりもない。それにしてもだ、人間ていうのは、百年後も二百年後も大して進歩がないんだねぇ」
　魔女は少し遠い目をした。
「それは……、どういう意味だ？」
　今度は、オスカルが眉根を寄せる。
「ちょっと前に、百年先の世界を見てきたんだけどね、そこでもあっちこっちで、何やらごちゃごちゃ揉めていたのさ」
「お前、そんなこともできるのか？」
「おやおや、魔法使いを舐めてもらっちゃ困るよ。先祖代々その手の道具はごまんとある。ちちんぷいぷい、ちょちょいのちょいさ」
　魔女は人差し指を立て、くるりと回す。それからワインをぐいーっと飲んだ。「葡萄の酒は、この時代がダントツだねぇ」と褒めちぎりながら。その割には顔が赤い。
「それで、その……、百年後はどうなっていた？　このフランスは？」
　魔女にワインを注ぎながら、オスカルは身を乗りだした。
「残念だが、国が違う」
　魔女はワインを美味しそうに口に運ぶ。
「あたしが行ったのは、確かロシアって国だった。たまたま落ちた場所が、ここみたいなでっかい家の天井裏でさ。あれは間違いなく貴族のお屋敷だったね。だけど何の恨みを買ったのかは知らないが、いきなり民衆どもが束になって押し寄せてきたのさ。多勢に無勢でひとたまりもなかった。あれは気の毒だったねえ……」
「え？　黙って見ていただけなのか？　お前なら簡単に助けることができただろう」
「魔法でかい？　駄目だよ。そんなことをして、万が一、歴史が捻じ曲がっちまったらどうするのさ」
「そんな……」
「ああいうのがきっかけになって、大きな紛争に発展したりするもんだ。それが未来へ繋がっていく。だから手出しはできない。それがあたしたち魔法界での暗黙のルールなんだよ」
「それで……、その貴族は、全員殺されてしまったのか？」
「さあねぇ。さすがにあたしも最後までは見ちゃいられなくて、とっとと姿隠すがたがくれしちまったから……」
──あんたみたいな勇ましい金髪の地母神ガイアもいたっけねぇ……。
「そう……なのか」
　自分の存在しない百年後の世界にオスカルは思いを馳せる。雪深い異国の未来を……。
　普段は穏やかな羊でいても、ひと皮剥けば獰猛な獣が姿を現す。百年前も百年後も、そして今も。結局、人間の脆さは未来永劫変わらないのかもしれない。
　脆さ？
　そんな都合の良い言葉で片づけてしまうから、いつまで経っても進歩がないのだ。
　魔女は睫毛を伏せて頬杖をついた。グラスが二重に見える。少し酔ったかもしれない。
　昔から酒には弱かった。128歳になっても変わらない。魔女の寿命は300年。その間に少しは強くなるだろうか。
「ほんと、くだらないよねえ。おんなじ人間同士なのにさ」
　オスカルは返す言葉がなかった。

──同じ人間、なのにな……。

　それから、魔女は屋敷から立ち去った。いや、消え去った（魔法使いの世界では《姿隠れ》というらしい）という方が正しいか。
　何処へ行くのかと尋ねてみたが、答えは返ってこなかった。
　魔女は、色々迷惑をかけた詫びだと言って、古惚けた布製の傘を置いていった。
「天蓋付き透明マントさ」
「天蓋？　透明……？　どう見ても、ただの傘にしか見えないが」
　オスカルは首を傾げる。
　ところが、傘を開くと、あら不思議。人が二人入れるほどの天蓋付きカーテンに早変わりした。
「な、何だ？　これは……」
「この中に入ると姿が消えるのさ。見ててごらん」
　カーテンの内側に隠れた魔女の姿が、カーテンどころか傘ごと消えてしまったので、オスカルは驚愕した。
　オスカルはカーテンから出たり入ったりを繰り返し、消えた躰を姿見に映し、映ってはいないことを何度も確認する。
「これも魔法の何とか……なのか？」
「言ったろう？　この手の道具はごまんとあるって」
　魔女の手には、ごまんとある道具が入っているとは思えないチェーンの付いた小さながま口バッグがのっている。傘もそこから取り出したのだ。
「これさえあれば、あんな辺鄙な森の奥まで行かなくたって、この部屋でイチャイチャし放題さ」
　魔女は意味ありげに、くくっ……と笑った。
「は？　い……いちゃいちゃ？」
「あの黒髪の従者さんとだよぉ。サイコーだろう？　羨ましいよ、このこのっ」
　つんつんと、魔女の指がオスカルを小突く。
「ば、馬鹿やろう！　わたしは、アンドレと、こんなところでイチャイチャなんてしないぞ！」
　オスカルは真っ赤になって叫んだ。
「どうした、オスカル？　でかい声が廊下まで聞こえてきたぞ」
　出し抜けにドアが開き、イチャイチャする相手が入ってきたので、オスカルは飛び上がる。
「わあっ！　何だお前！　勝手に入ってくるな！」
「は？　仕事が終わったら直ぐに来いと言ったのはお前だろう？」
「そ……、そんなことを言った覚えはない！」
　ああ……、噛み合わない。
　仏のアンドレも、さすがに頭に血が上ってくる。
「……畏かしこまりました、お嬢様。大変失礼いたしました」
　わざとらしく、深々と頭を下げる。
「なっ何だ、その他人行儀な言い方は！」
「お前こそ、どっちなんだよ？」
　両者バチバチッと睨み合う。
「いいねぇ。いつまでも初々しくて」
　魔女は、にやにや笑いながら二人を眺めた。
　オスカルは唇を尖らせてそっぽを向く。三十路過ぎて言われても、嬉しくもなんともない。だが魔女の年齢からしてみたら、人間の30代なんて、赤子に毛が生えたようなものなのかもしれない。

　一方アンドレの興味は、あっという間に天蓋付き透明マントに移り、物珍しげに傘を閉じたり広げたりしている。
「使う使わないはあんたたちの自由だけどさ、受け取っておくれよ。あんたにも酷いことしちまって悪かったね」
　魔女は、アンドレを見て言った。
「残念だけど……、平民を貴族にする魔法はないんだ」
「ああ……、そんなことはもう良いんだ。俺は、とうの昔に、彼女を護るためだけに生きていくと決めたんだ。それなら身分なんて関係ないだろう？」
　アンドレは表情を変えずに言った。
　オスカルは釈然としない気持ちになりながらも、何も言い返せずにいた。
　彼のために自分ができることは何もない。
──貴族の身分なんて、役立たずのお飾りだ。
「他の人間には単なるボロ傘にしか見えないから、その辺に投げておいても問題ないよ」
「でも、大事なものではないのか？」
　オスカルは、もう一度傘を見た。二人で過ごす時間も、精神的余裕も、減っていく一方だろう。実際に使うかどうかも分からない。
「そうだね。いつかそのうち、ほとぼりが冷めた頃に取りに戻るよ」
「わたしが……生きているかどうか分からないぞ」
　神妙な面持ちで、オスカルは答える。
　冗談ではなかった。明日のことすら読めない今日こんにちの混沌のさなかでは、決して有り得ないことではないのだ。
　アンドレは複雑な表情でオスカルの顔を見る。
「ふふ、そんなのは今に始まったことじゃない。何度も経験してきたことさ。これからもね……」
　魔女は悟ったように呟いた。それから、アンドレの顔をじっと見つめる。
「やっぱり似てるよ。あたしの、あの人に」
「え……？」
　事情を知らないアンドレは困惑する。
「あたしが昔、愛した男さ。黒髪も、その黒い瞳も……」
「そ、そうなのか……？」
　唐突な魔女の告白に、アンドレよりもオスカルの方が動揺を隠せないでいた。
「森で、最初に見た時は、思わず叫びそうになった。あの人が還ってきたのかって……。だけど、やっぱり別人だった。馬鹿だよねえ」
　魔女はちらりとオスカルを見る。
「余計なこぶ付きだったしね」
「こぶって……、わたしのことか？」
「面白くなかったねえ……」
　オスカルの顔を見上げ、魔女は悪戯っ子のように微笑んだ。
「お前……まさか、それでわたしたちにあんな魔法を……？　あっ！　だから、あのとき馬の上で、アンドレに抱きついていたんだな！」
「じゃあねぇ、楽しかったよー」
　ぼんっっ！！！
　消えた。
「こらあぁっ！　答えろーっ！」

　一年後。

　ぼんっっ！！！

　薄暗い部屋に、一人の魔女が現れた。銀色の髪。はしばみ色の瞳。
　魔女は、ぐるりと部屋を見渡す。窓際には、初めて人間とグラスを傾け合った大理石のテーブルと二脚の椅子。扉を閉じたフレンチウィンドウの隙間から、淡い光が漏れている。
もう二度と開けられることのない窓。──この部屋の主の手では。
　彼女が歩き始めたことで空気が動き、カーテンがふわりと揺らいだ。寝室を覗き込む。きっちりとベッドメイクされたシーツの上に、誰が置いたのか白薔薇が二輪。
　ナイトテーブルの横に、忘れ去られたようにそれは立てかけられていた。その古惚けた傘を彼女は手に取り、柄の節目部分をスライドさせる。「0」のままだった。
「なんだい。一度も使わなかったのかい。真面目だねぇ……」
　二人には伝えていなかったが、使用回数がそこに出るのだ。そんなことをして何になるのか？　人間と同じように、魔法使いだって、たまには無駄なことをするものだ。作ったのは自分ではないけれど。

　今日、この部屋に《姿現れ》する前から、彼女と、彼女の従者がもう二度と戻ってこないことは知っていた。何故なら、自分は魔女だから。魔女は何でも知っている。そう、知らなくて良いことまで。
　知りたくもないことまで……。
　時が止まったように閑散とした屋敷の廊下を、傘をさしながら魔女は歩く。天井までありそうな重くて豪奢なドアを開けると、大きな肖像画が目に飛び込んできた。がらんとした大広間の薄暗い奥の壁に掛けられている立派な額縁に、計算されたように光が射している。
　白馬に跨またがり、右手には剣つるぎを握り、天を仰ぐ蒼海の瞳。金色の髪を靡かせて。
　その生き生きとした表情は、今にも額縁から躍り出て、こちらへ向かって疾走してきそうだった。
　魔女は少しずつ近づいて、少年の頃の彼女を見上げる。
「遺影にしては若過ぎるし、大き過ぎるし……、おまけに一人足りないねぇ」

『女の身で剣を扱う。貴族の癖に平民に懸想する。何もかも歪んでいるよ。生き様も、感情も』

　結局──彼女は、どちらも最期まで貫いたのだ。
「あーあ。参った、参った。人間には敵わないねえ……」

　建物と同じくらいあるだだっ広い庭へ出た。さて次は何処へ行こうか、と魔女は考える。
　黒髪で黒い瞳の男でも、また捜しに行くか……。なぁんてね。
「だけど、なかなかイイ男がいないんだよねぇ。百年先の世界に行った時、たまたま二人見つけたけど、ドイツの男はどうにも頼りなさげだったし（おい）、逆にロシアの男は勘が良過ぎて近寄る前に正体がバレそうだったし……。ありゃ魔法使いだってびびるよう。足して二で割ったのが、ちょうどあの従者だったんだけどね。あの時は百年に一度の巡り会いだわっ！　て胸が躍る思いだったのに……ふん！　まったく、上手いこといかないもんさ」
　魔女はひとしきりぼやいた後、がま口バッグから箒を取り出し、よっこいしょと跨った。
「いけないいけない。婆さんの時の癖が出ちまったよ」
　まあ慌てることはない。なんせ時間はたっぷりある。
　あたしは、まだぴっちぴちの129歳なんだからね。
　それから、魔女は空へ上がり、箒を上昇気流にのせると、最後に広大な邸宅を見下ろした。
「蜥蜴が尻尾を切るように、二人して逃げちまえば良かったのにさ……」

おまけ＊天界の花嫁

「アンドレ、こんな薄くてぴらぴらした服は落ち着かない。もう脱ぎたい」
　オスカルは花の女神のようなドレスを纏っていたが、窮屈だし着慣れないしで不満たらたらだった。
「駄目だよ、オスカル。とても似合っているし、これから結婚式なんだから、もう少しだけ我慢して」
　優しく諭すアンドレの全身を、オスカルは上から下まで眺め回す。
「どうしてお前は下界にいたときと変わらないんだ？　狡いではないか」
　アンドレは白いシャツと黒いズボン姿だった。元来、男の衣装というものは、どんなシチュエーションでも大して代わり映えしないものだ。
「俺の服なんかどうだっていいんだよ。主役は、お前なんだから」
「だけど、これ、動くと腿まではだけるし、裾は足首くらいまでしかないし、ブライズメイドは必要ないんじゃないか？」
「それもだめ。そこに天使のブライズメイドが控えているんだ。さあ、ヴェールを被って」
　アンドレは白薔薇の花冠で飾られたヴェールを金色の頭にそっとのせた。
「わっ、前が見えないぞ！　これでは歩けないではないか」
　その減らず口で、よく天界の扉が開いたな。
「オスカル……。俺と結婚したくないの？」
「そんなことは、言ってない……」
「じゃあ、俺にヴェールを上げさせて。夫婦の誓いをさせてくれ。な？」
「し……仕方がないな……」
　ところが、式も始まっていないのに、アンドレはオスカルをいきなり抱き上げて、邪魔なヴェールを捲り上げ、柔らかな唇を奪った。
「……んっ、む……ぅ」
　ぱふん……。
　雲の上は無限のベッドだ。
「お前……、段取りは？　式は……どうした？」
「ごめん。俺の方が我慢の限界だった」
「なっ……！　だから、わたしは、あの朝、天蓋付き透明マントを使ってみようかと言ったのだ！」
「駄目だよ。それこそ我慢できなくなるじゃないか。いくら何でも出動前にそれはまずい」
「お前っ、さっきから駄目だめと、なんで急にそんなに偉そうなんだ」
「駄目、もう黙っ……」

　言葉は直ぐに吐息に変わる。
　吐息は、花の香りに変わる。
　そうして──、
　天上の鐘が鳴り止むまで、いつまでもいつまでも、彼は彼女にキスの雨を降らせ続ける。
　二人の頭上を、天使がぶうぶう言いながら旋回していた。

　雲間には七色の虹。
　夜空には満点の星。
　月と太陽は背中合わせ。
　俺は目いっぱい両手を広げ、
　すべての海と、
　すべての陸と、
　お前を一緒に抱き締めよう。

──愛している。オスカル……

　雨は嫌いだった。体温を奪っていく冬の雨も。じっとりと纏わりつく夏の雨も。
　けれど今は。今、彼の熱とともに躰中に浴び続けるこの雨は。
　雨にキスをしよう。天界へのドアが開き、降り注ぐ光のヴェールへ消えかけていく雨に。キスを。
　彼に。
　キスを。
　お前に──。

オンリーのアンソロには、初めはこちらを出すつもりでした。でも加筆修正している最中に、ちょっとマニアック過ぎるかもと思い、『叶わぬ夢』に変更しました。

せっかく途中まで手を入れたのにお披露目できないのはやっぱり悲しい。なお、アメブロには元話は投稿していないので、こちらが初出になります。
話の大筋は変わっていませんが、５年前の作品なので見るに堪えない稚拙な表現等々を、手当たり次第に削除しては書き足しを繰り返し……大して変わってなかったりして
猛暑で引きこもりがちな読者さま、暇つぶしに読んで頂けたら嬉しいです

元話はこちら（読まなくていいです）

#6 Lézard（蜥蜴）～前篇～ | 短篇集《ベルばら》 - sachiの小説シリーズ - pixiv「くだらないねえ……」誰も知らないはずの秘密の場所。ひっそりと抱き合う恋人たちの背後から、無遠慮な嗄れ声が割り込んだ。～＊～＊～＊～貴族と平民。どれほど愛し愛されようと、この世で添い遂げることは許されない。だが、しかし……、たとえ黄泉國での永遠を選択しても、固く結ばれた

www.pixiv.net

#7 Lézard（蜥蜴）～中篇～ | 短篇集《ベルばら》 - sachiの小説シリーズ - pixiv昔々の話です。世界で自分たちのみが絶対的な存在である、と人間が驕り高ぶっていた頃、その標的にされたのは魔法使いという種族でした。彼らの長い人生に於いて最も災厄と呼ばれた日は、何の前触れもなく訪れました。人間の手によって、魔法使いは片っ端から捕らえられ、一人残らず火炙りにされ

www.pixiv.net

#8 Lézard（蜥蜴）～後篇～ | 短篇集《ベルばら》 - sachiの小説シリーズ - pixiv魔女をパリまで連れ帰ることにしたオスカルは、仕方なくアンドレの馬にのせた。「腹が減った～！このままでは野垂れ死ぬ～」と煩いからだ。「またわたしたちに魔法をかけたりしないだろうな？」オスカルは、アンドレの前に座っている魔女に鋭い視線を向けた。「安心おしよ。見ての通り、この杖は

www.pixiv.net

初心者なりに出来る限りの告知はした。あとは皆さんとのご縁を祈って。青天の酷暑の空に（うんざり）

にほんブログ村

爪だけは準備万端