そう言われた時、何故だか僕は今朝の事を思い出していた。
「このキッチンは、日当たりが良すぎる」
いつもより30分目を早く覚ましてしまった僕が、朝一番に思ったのはそれだった。
「やだお兄ちゃん、今日は早いじゃない?」
もう母は起きていて、バターの匂いがした。
「おはよう。」
例のあの日以降、僕は自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようになっている。
「今日、学校で何かあるの?」
「…うん、あるよ。」
卵の焼ける音がする。何もないけど、口が勝手に動いた。食卓について、足をぶらぶらさせる。
「図書室、行こうと思って。」
「へえ、珍しいじゃない。」
母は笑った。
そっと、アイの部屋のドアを開ける。アイはまだ眠っているようだった。
「お兄ちゃん、ウチ出る時に、アイちゃん起こしてきてくれる?」
母にそう言われたから、僕はここにいるのだ。そうだ。何故だか急に熱くなってきた体を沈めようと、僕は深呼吸をする。
「…ア…。」
そう口にした瞬間。
僕はアイにキスしたくなった。僕の欲望が久しぶりに蠢いている。息づいている。震える僕の手が、アイの茶色い髪に少し触れる。
「ん…。」
アイが少し、目を開けた気が、した。
はっ!…息を呑み、アイから離れる。一歩、また一歩と。
そのまま部屋を出て、僕は逃げるように家を飛び出した。
朝靄の中の通学路は、あまり人がいなかった。朝陽がやけに眩しい。のろのろと僕は歩いた。
良かった。キスしなくて。
汚してはいけない。掟は守る為にある。
キスすれば、僕はきっと透明なマントを脱ぎ捨てられる。でも、その瞬間、全てが壊れてしまうだろう。そう、僕も含めて。
いつからこんな事、望んでいた? アイとキスしたい、なんて。あの日からか?
そう断言したい。それが可能ならどんなに僕は楽になれるだろう。でも、僕の中の欲望は幼すぎて嘘すら吐けない。欲望の塊を取り囲む、歪んだ僕の精神とは大違いだ。
ズットノゾンデイタダロウ?
壊したくなんかなかった。アイを守りたかった。アイを取り囲む全てのセカイを守りたかった。それは本当なのに。神にだって誓えるのに。
ごめん、ごめんよアイ。
アイの最期のあの寝顔。あの天使のような寝顔を拝めただけで、僕はシアワセだよ。
きっと昨日までと同じ目で、同じ顔して、僕はもうアイを見る事はできない。この先、透明なマントさえ濁っていくだろう、と僕は確信した。
泣きもせず笑いもせず怒りもせず、真っ直ぐに続く道を見ていたら、何だか死んだような気になった。死んでいるのは僕か? それともこのセカイ全体? どっちでも同じか。
見上げれば吸い込まれそうな青空が、自分に迫ってくるように見えて、また足元に目を落とす。それでいいんだ。空なんか見るな。自分を戒めてみる。
オマエはもう、この薄汚れた靴だけ見ているしかないんだよ。
誰だ? 僕にそんな事を言うのは?
ああ…僕自身しかいないじゃないか。
僕に話しかける奴なんて。
猫だ。猫が、僕の前を横切った。電柱に擦り寄り、ゴミ袋をつついている。僕が近寄ると、猫は僕をじっと見た。条件反射で笑って、僕はしゃがんで右手を差し出した。汚い猫だった。目やにが膜を作っていた。猫は僕の手の臭いを嗅いで、さっと逃げていった。
「はは、やっぱり。」
何故だか笑みがこぼれた。全て分かっていたかのように、僕は一人呟く。
青い空と地面に挟まれそうな、押し潰されそうな、そんな今日という日の始まり。
朝。