「日本は……」

「狙われている!」

 デデデン♪

実は、ロシアが 江戸時代の日本に攻めてきてたって知ってましたか!?




文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件[1]。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件ロシア語Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。



日本との和親条約を結んだプチャーチンとか、


国後島に上陸して、幕府の役人に逮捕されて収監されていたゴローニンの話なら聞いたことありますけど、

江戸時代に、日本とロシアが戦争していた なんて知りませんでした!!




江戸時代後期の1804年ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だってロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年アダム・ラクスマン根室に派遣し、日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。

文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り[注釈 1]、また、日本への報復を計画し、樺太択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフロシア語版は、文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行[注釈 2]を司令官に、弘前藩南部藩庄内藩久保田藩から約3,000名の武士が徴集され、宗谷斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢大砲の一種)が奪われたという記録が残っている(後述)[1]

樺太への襲撃編集

文化3年9月11日(1806年10月22日)、樺太の久春古丹短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された。

略奪に誘拐、放火……、

あいつら、やること全ッ然 変わっとらんな~。



当時は、爛熟した『化政文化』の華が開き、一見泰平にみえる時代ではありましたが、
ロシアによる侵攻は、日本に国防の重要性を覚醒させる事件となりました。

ロシアとの『北方領土』を巡る因縁は、200年以上も前から続いていたのですね……。




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