「朕が新儀は未来の先例たるべし」
(私が行う新しい政治は、未来において先例となるだろう)
【後醍醐天皇】

 後醍醐天皇による『建武の新政』は、従来までの日本史の定説の中では評価が芳しくありませんでした。



 公家の三条公忠(※北朝方)も、日記のなかで「物狂の沙汰」と記していましたが、
それも、後醍醐天皇と利害関係で対立していた立場にあった人によって書かれた記録であります。

つまり、公平な評価ではなかったのです。

 後醍醐天皇によって鎌倉幕府は打倒されましたが、平安京の公家が天皇に期待していたのは古い貴族政治の復活でありました。

 御新政(※新儀)は、天皇が直接民に君臨する統治システムを目指したものであり、
身分や階級にとらわれず、鎌倉幕府からは『悪党』と呼ばれていた土豪的な田舎武士にも官位や役職を与えるなどして活躍の機会を与えられましたが、
それが、古い頭の お公家さまにとっては、実に とんでもない話でありました。

 後醍醐天皇による、慣例にとらわれない御新政も、それまでの既得権益を奪われた側からしてみたら実に不愉快極まりないもの。

 武士は武士で、後醍醐天皇に協力して鎌倉幕府を倒しはしましたが、
足利尊氏のように、源氏の流れをくむ武士を擁立し、幕府を再建することを目指していたこともあって、
後醍醐天皇の試みた新儀は、御新政を支える協力者に恵まれなかったこともあり、残念ながら3年余りで頓挫してしまいました。


 それでも、後醍醐天皇の「新儀」は、やがて500年の時を隔てて日本の近世・近代の政治史に甚大な影響を及ぼすことになります。

 室町幕府の末期的状況のなかで、一時荒廃した朝廷の権威も、戦国時代から復興をみせはじめ、日本国民の間に醸成されてきた『尊皇の念』が、江戸時代の国学や水戸学などによって高まりを見せ、
近世の階級社会に対するアンチテーゼとして『天皇を中心とした日本』の理想が再び掲げられるようになりました。

 そう……、

明治維新です!



 明治維新の成功により、後醍醐天皇の理想が、ようやく日の目を見ることになりました。

 後醍醐天皇の新儀は、確かに『未来の先例』となったのです!





そして、



 頑迷な保守派たちは、『女系天皇』『女性宮家』という話題を持ち出しただけで、脊髄反射的に拒絶反応を示しますが、
これは、後醍醐天皇の『建武の新政』に対する、公家や武家といった『古い特権層』が示した反応によく似ていると思いませんか?


今の日本は、まさに岐路に立っています。

女性天皇、女系天皇の即位を制度的に公認し、皇統の弥栄に繋げるための改革を目指すべきか!

頑迷固陋にして因循姑息、
男系男子に固執して、此の国の未来を自らの手で閉ざすのか!

今こそ、後醍醐天皇の『新儀』に沿う時です!