普通級においての特別支援のあり方。② | 発達障害一家・5人揃ってアスペ+ADHDだからできること

発達障害一家・5人揃ってアスペ+ADHDだからできること

ADHD+アスペルガー症候群の当事者です

息子たちと旦那も同じ障害を持っていますが
だからこそできること  を大切に。
HP URL:nekomama.site



*タイトル変えます。
こっちのがしっくり来ますよね。笑







相変わらずの個人主観の記事です。

こういったテーマだと、どうしても表現が直接的になったり、言い回しの問題でもしかしたら不適切なことが多くなってしまいがちで、
不快に感じさせてしまうことが多くなってしまうかもしれませんが、申し訳ありません。

それでも、伝えたいこと…。
発達障害児を持つ親の心の叫びだと思ってお付き合いください。笑







二次障害を起こしたくない。
これを起こしてしまうと、それまでの苦労が水の泡となってしまうかも…

せっかく長年かけて積み上げてきた生活習慣も、スキルも、
全部ひとっ飛びにめちゃめちゃになってしまう。

二次障害には、それくらいの破壊力があります。


大袈裟な話ではなくて、
これはホントにホントに…切実。


ただでさえ、変化が苦手な発達障害児。
一度崩れてしまったものを取り戻すには、定型の人の何倍も時間がかかります。



いつものリズムが一日崩れただけでも、
そのリズムを取り戻すために1週間かかるのなんてザラです。

ましてや、そんな状態になったら…



元々、それまでだって、頑張って頑張って、「普通」に紛れているだけ。
それは決して当たり前ではなく。

たかが連絡帳一つ「毎日」書いてくることに、どれだけの神経を張り巡らせて、どれだけの体力と精神力を持って取り組んでいるか。


以前、「息をしているだけで苦痛だ」と表現したことがありますが、
発達障害者は、ストレスに弱いわけではありません。

ストレスを受ける機会が多く、そのかかり方がいちいち大きいんです。


例えば。

大きな音がしてビックリする。
↑これがどれだけのストレスかって言ったら、


歩いてたら、鼻先20cmのところを車が通り過ぎた。


くらいじゃないですかね?
たぶん。それくらいはビックリします。

もしくは、上から植木鉢が落ちてきたとかね。しかも、鼻先かすめたくらいの勢いで。
5cmとかそれくらいのレベル。


mじゃないですよ?笑   あくまで「センチメートル」です。笑




もうね。心臓バクバクするんです。
息もちょっとハァハァしちゃうんです。
それくらいビックリするんです。


ようはそういうこと。





そういうストレスに日々晒されて、
その上で、ガチャガチャ音が溢れる教室で、
予告のない音や刺激にいちいち驚きながら、
聞き取れない言葉を探してアンテナ張り巡らせて、
聞き取れなくてキョロキョロしてるところにまた「何やってんだ!」って大きな声が飛んでくる。




ちょっと泣きそうになりますよね。




そんな状態で、さらに苦手な作業に取り組んで、
なんとかかんとか… 情報拾って、
また書くことに頑張って意識を向けて…

そしたらまた知らない間に次行ってたりして、
追いつかなくて…





これは定型の人でも同じはずですが、
気持ちに余裕がある時は、いろんな事にスムーズに取り組めても、
悩み事があったり、ストレスが詰んでる状態だと何も手につかなくなりますよね?

それでもやらなきゃいけないことがあって、頑張って…
だんだん、当たり前のことも手につかなくなる。

いつもだったら聞き流せることも聞き流せない。
いちいちイライラする。
つい大きな声が出る。

そんな経験は、誰もがしたことがあるはずです。


発達障害者は、日常を送るだけで、すでに詰みの状態です。


だから、常に限界点が目の前にある。
これね、決して過言ではないと思います。


ただ、普通級にいられるようなタイプだと、「みんなやってるんだから」と、その苦痛はかき消されてしまうし、
本人もかき消す努力をしてしまう。

知らないうちストレスがたまって…
気付いた時には手遅れ。なんてことも珍しくないですよね。




二次障害がこれだけの影響があることが分かっていれば、
それを回避することがどれだけ大切かはわかってくれると思いますが…



発達障害者への支援というのは、この「詰み」の状態を緩和することが目的です。

少しでも苦痛を軽くして、
少しでも過ごしやすく…


そうやって考えた時、1番必要なものは何か?



それは、発達障害者の気持ちに寄り添うこと。


苦痛を取り除くためには、確かにテクニックは必要かもしれません。
それがあれば、効率的に、お互いの苦痛を取り除くことができる。

でもね、テクニックって、後付けなんですよ。

発達障害だから、こうしなくちゃ。っていう入り口じゃなくて、
この子を楽にしてあげたい」という気持ちがあれば、
勝手にテクニックは付いてきます。


人間は考えることができる生き物で、
その方法が例え今ある発達障害者対応にはなくても、本人が楽になれればそれでいいし、
型にはまった対応なんて、言うほどありません。

専門家や療育者でも、どうせその場その場で思いついたことやってみて、試して、
うまくいった?ダメだった?って、繰り返し繰り返し試行錯誤してるのが当たり前。

これをしたらこれができるなんて、魔法みたいな療育も対応もありません。


全ては可能性の問題で。
常に「できるかも。楽になるかも」と、「試している」


じゃあ 今まで言ってた対応って何よ?!

って話になるんですが、


あれは、端折るためのものです。

寄り添いたい。なんとかしてあげたい。
そう思う人に、考える時間を飛び越えて、すぐにできる簡単で効果的な対応を出しただけの話。




逆に、


いくら対応示しても、気持ちがない人はやりませんから。



根本的なところで、気持ちがなければ何も始まりません。
逆に気持ちがあれば、やり方なんて星の数ほどあるんです。

それを、探ろうとするか。
全てはそこに尽きます。



発達障害とは何か?
どんな特性があって、それはなんで?


そういった知識は、可能性を探るための布石です。



なんのために発達障害を勉強するの?
なんのために対応を学ぶの?


表層的な知識を身につけても、本人に寄り添う気持ちがなければ、生きた対応は生まれない。



机上の理論で発達障害児と向き合っても、そんなあまいものではありません。
せっかくの知識も、使えなければ何の意味もありません。




もしも。これを読んでいる教育者の方がいたら、是非考えて欲しい。




あなたは、その子自身と向き合っていますか?



決められた枠の中で、決められた役割を果たし、
そのためのスキルとして発達障害への対応を学んでも、うまくいくわけありません。


今一度、教育者を目指したその時の気持ちを思い出して欲しい。


あなたはなぜ、先生になろうと思いましたか?



誰もが、決して小さくない情熱を持って、その道を選んだのであろうと、私は信じたい。

教えること、育てること…
その中で、子供の成長に喜びを感じ、自分がその一端を担いたいと…

少なからず、そういう気持ちを持って、採用試験を受けた人は沢山いるはずです。

中には腰掛け的な人も、
保険代わりだった人もいるでしょう。

それでも、きっと、


初めて教壇に立った時は、熱意があったはずです。





教育者というのは、とても責任の重い職業です。
何故なら、子供の成長の一端を担う役割を果たし、
それがその後の子供達の人生に少なからず影響を与える職業ですから。



綺麗事だと言われるかもしれません。
そんな情熱をもった先生なんていないよ。と言われるかもしれません。

それでも、1ミリもないわけがないその情熱を…








一つ、思い出して。




発達障害児に寄り添うという意味を、考えてみて欲しい。



うまくいかなくても、振り回されても、
「気持ち」は、本人にも親にも必ず伝わります。


「文句をつけられた」ではなくて。



不登校を含めた二次障害が、その子の人生にどれだけ大きな影を落とすか。

それを今一度考えて、
子供達に接する「気持ち」を…


今一度。
考えて欲しい  と思います。





終わり。