『光る君へ』第6回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

第5回までとは違って今回は、主な登場人物の思惑がくっきりと見えてきたのでおもしろくなってきた。ドラマのできは相変わらずだが、ドラマの方向性が見えてきたということだ。

 

父為時に対してまひろが反抗姿勢から一転、和解に転じたようにみえるところは彼女の成長ぶりが見られて納得できるところだ。忌まわしい右大臣家とは距離を置くために左大臣家の源方と親密になろうとする彼女の提案は確かに政治的で、『源氏物語』の内容を踏まえた描き方だと思うが、こんなところを強調しなくてもと小手先が過ぎるように思う。ここでは父為時がまひろの提案に納得するのは表情だけにとどめた方がよかったように思う。まひろが男であったらと漏らしたのは嵩に懸かった表現のように聞こえて、言わずもがなの蛇足の台詞だったからだ。

 

道長と遠ざからなくては・・・この命に使命をもたさなければ、とまひろが独白していました。この歳で道長を意識し過ぎだと思うものの、「使命」とは何かよくわからないが、多感な少女にふさわしい思いだと解釈した。心の動きがわかるこのような場面がこれからも必要だと思う。もちろん視聴者の想像力をかき立てる余地を残してのことだ。

 

 

倫子たちとの語らいでまひろが『蜻蛉日記』の解釈を述べるところは、内容はともかく彼女が一般的な意見とは別に独自な観点を持っていることがわかり、やはり彼女の成長ぶりがよくわかるところだった。15歳前後の女子が新聞の投稿などで、びっくりするような社会観察、人物評価をしているのを読むことがあるが、まひろもまた女子としての早熟さを見せつけてくれた場面だ。『蜻蛉日記』をお持ちします、と言うまひろに笑いながら、本は苦手という倫子の黒木華の演技はますます好調だ。

 

一方で、道長もまた政治的に成長した姿を描いて、なるほどと思わせてくれる場面がいくつかあった。父兼家が道兼を泥をかぶる者として必要だ、という話をすぐに道兼にしてしまうところは少し短絡的な演出かな、と思わせる描き方だが、目覚めはじめた若い道長のことだからと納得できるところかと思う。こうなると道兼も少し可哀想だ(史実ではまひろの母を殺してはいないので、あの世の道兼への同情も含めて)と思ってしまう。

 

 

道隆と道長が話をする場面で、ようやく道隆の存在感が浮かび上がってきた感じがした。そして正妻貴子が若手の有望貴族を集めて漢詩の会を開くのを提案したのも、よく知られている彼女の出自と漢才を考慮してのことと思われる。

 

その漢詩の会に不参加のはずの道長が出てきて、漢詩を披露する。その漢詩は当然まひろを思ってのこと、まひろもまた、彼は私のことを思ってのこと、という表情だったが、この時点ではそのようにこじつけなくてもいいのではないかと思った。二人がそれぞれに互いへの恋心を自ら確かめる描写やエピソードが決定的に欠落しているために、このような仕掛けは空回りしているように見えてしまうのだ。

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→3点)2.構成・演出=的確か(10→2点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→6.06点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→3点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→5点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→6点)7.共感・感動=伝える力(10→2点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→4点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→2点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→2点)

合計点(100-35.06点)

 

ここからは『光る君へ』全般について書く。

時代考証の倉本一宏教授は「『ドラマはドラマ、史実は史実』という姿勢で、両方楽しんでいただきたい」と語られていますが、あまりの描き方に楽しめないところが多々ある。

 

今回では漢詩の会がひどかった。道隆が主催し、斉信、行成、公任たちが参集する「漢詩の会」に紫式部と清少納言がそれぞれ父親に伴われて参加し、顔をさらして意見を求められるなんて、これが平安時代なのか、と違和感強すぎの描写でした。詮子と左大臣源雅信との対面の場面も正視できなかった。円融天皇などがしていたのに簾越しの対話をなぜしないのか理解できない。

 

 

紫式部と清少納言の初対面はやっぱりこのようにしか描けないんだな、という感じがした。想定の範囲内だったが、この想定の範囲内の描写というのはドラマとしては致命的だと私は思っている。世界的な随筆作家をなぜこのように貶める必要があるのか。私はそのように思った。紫式部が日記に「・・・真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり・・・」と清少納言の漢才批判をしていることを真に受けてのことかと思うが、清少納言に失礼極まりない描き方だ。

 

 

「この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見んとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを・・・」として書かれた『枕草子』はこれ以上なく吟味に吟味を重ねて書き綴られたと思うのだが、紫式部は『枕草子』を書いた清少納言に敬意を抱きはすれど日記に書かれているようには「絶対」に思っていなかった、というのが私の立場だ。それは『源氏物語』を読めばわかると言うしかない。このことについてはすでに書いたので繰り返さない。

 

倉本一宏教授が語ったことをもう一つ、「この時代は武官以外の者が武器を携行することは禁止されていた。ましてや血が流れることを穢(え)として忌避する当時の貴族は、人を殺(あや)めることなど、するはずはなかったのである」(現代新書2024.1.21より)。今回の最後の場面で道長が弓矢で盗賊と戦っていたが、違和感を通り越して目を疑った。平安時代の権力闘争と紫式部の生涯を描くなら、それなりの時代背景を正しく反映しなくてはならないと思うのだが、これはもう平安時代じゃない、と思うのは私だけなのか。

 

 

NHK大河ドラマのスタッフの方々が一所懸命されているのはよくわかる。時代考証が大変なのはよくわかる。それでも、なぜ倉本一宏教授の意見を参考にされないのか、よくわからない。お歯黒=鉄漿は平安時代の貴族の風習だったが、そこまでは求めない。貴族女性は夫と両親以外には顔をさらさなかった、などは『源氏物語』の読者の常識のはずだ。そのように描くのにいかほどの抵抗があるのか、心底理解に苦しむ。

 

脚本の大石静は「私はこのドラマで、道長をバランス感覚のいい非常に優れた政治家として描いていきます。公卿たちも蹴鞠をやり、歌を詠んでいるだけではなく、朝から晩まで忙しく働く官僚であったことも描きますので、道長と平安時代への印象は、これまでと相当違うものになると思います」( 1/27(土) 9:10配信ENCOUNT)と語っている。語っている意気込みは評価できるのだが、今回のようであれば間違った平安時代の印象がもたされるのではないかと危惧するのは私だけの思い過ぎだろうか。

 

「道長をバランス感覚のいい非常に優れた政治家として描いてい」かれるのはけっこうだが、そのために道兼がすでに犠牲になっている。実際より悪く描かれているということだ。父兼家も巻き添えになっている。これからも道長を非常に優れた政治家として描く一方で、彼に対立した人々を悪く描くのではないかと、それをずっと心配している。取り越し苦労であればいい、そうでなければ歴史を歪めた描き方になってしまうことになる・・・と思う。NHK大河ドラマのファンはそのようなことを望んでいないと信じたい。