震災から15年。
なんだか、遠い昔のようで、つい昨日のようで。

私は当時中学1年。
私の住む神戸市西部は大きな被害はなかったと聞く。

実際、当日も私は部活の朝練に向かった。
電気もガス、水もとまっていたけど。
私は、部室の鍵当番で、校門が開くと同時に学校に入る役割。

登校時通る公園の地面がひび割れたり、
異常に車が少なかったり…

案の定、私しか生徒は来ていませんでした。
せっかくなので、用務員のおじさんと教室の片付けを
30分ほどして帰りました。

テレビがついて、特に長田地区の惨状を見て絶句。
そこまでとは思っていない。

当時、父は県内で単身赴任中。
インフラ関係の仕事だということもあり、
週末までは帰宅できない。
母を支えなければいけない。
余震のたびに怖くなる。
父が戻ると安心。

週末、須磨の親戚のもとへ自転車で。
車は通れないから。
東にむかうにつれ、いまなお残る火事の火、煙。

テレビでみた戦争の跡みたいだと思った。
父は、「父さんだけで来たほうが良かったな」と言った。

私は、震災で直接的な辛さを味わってはいません。

むしろ、環境が変わったのは復興に向け動き出したころから。

私たちの地域には分譲予定の空き地がたくさんありました。
そこに仮設住宅が立てられる。

大半が一人暮らしの年配の方。

公園にも仮設が立てられ、学校では、仮設に住む方に迷惑に
ならないように常々注意される。

仮設に住んでおられた方の苦労は想像できません。
でも、かわいそうとかそんな言葉でもいい表せないし、不適切だ。

「あんたらは、ちゃんとした家に住めていいね!」
こんな言葉をすれ違いざまにかけられたこともあります。

孤独死とか暗い話も身近になる。

所属する吹奏楽部で、励ますコンサートをしたり、
地域の方は仮設の皆さんとの交流をもとうと奮闘していました。

復興中の時期のほうが、身近で、強く印象に残っています。

昨年末から、最後の仮設跡地が分譲開始されました。
そこに仮設があったことを知る人も少ないかもしれない。

時は流れて、大学二回生のとき、
ニューヨーク旅行で博物館に行ったとき、
場所に迷った私に声をかけたガードマンさん。

日本人とわかると「神戸に行ったことあるか?」と聞かれた。

神戸出身だ、と言うと
「地震、悲惨で悲しかった。
カリフォルニアの時にもびっくりしたが、神戸は好きな街だから」
と神戸の復興について聞かれた。

あそこまで被害が深刻なのに、盗難や強奪が起こらなかったのは
神戸だけらしいです。
素晴らしい、誇りに思え、他の国は見習わなきゃいけない、
と力説されました。

毎年、思い返すけれど、15年の節目は特に考えさせられる。

また、今、被害の大きかった地域をJRから眺めると高層ビルの多いこと…

きっと仮設に暮らしていたかつての住人の皆さん達は、
複雑な心境にちがいない。

震災前後で変わった生活、価値観…

忘れてはいけないし、忘れられない。