トラ猫日記さんをまた取り上げます。日本と朝鮮の古代からの深い付き合いなどないといっていますけど、呆れてしまいます。
トラ猫日記さんからのブログより
「 さらに朝鮮通信使の派遣回数だが・・・室町時代3回、安土桃山時代2回、江戸時代12回、440年間にたったの17回WWWW。ということは・・・、単純計算しても約26年に一回しか来ないんだから、当時の日朝関係などほとんど無いも同じじゃないか。日本の馬鹿学者や媚朝鮮バカ団体などが主張する、日本と朝鮮の古代からの深い付き合いなどないのは、朝鮮通信使の数回見ただけでも嘘だとわかる。」
呆れて物も言えない。なんと弱脳者だろう。公と民との区別もつかないのだろうか・・・。確かに公式的な関係はトラ猫日記さんが言うようにわずか17回だけである。しかし、民間同士の関係は盛んに行われていた。特に敦賀は古くから朝鮮半島や大陸との往来が盛んであったことで有名である。民間同士の日本と朝鮮の深い付き合いは、古代からずっと続いていたのです。トラ猫日記さんの意見は、一見、正しいように思えてしまうから怖い。このような姑息な思考で真実の歴史を語っているつもりもないのでしょうけど、知らず知らずに自分自身が歴史を捏造して広めているんですね。それを私は指摘してきたのですが・・・。こういう方は、もうほうっておくしかないのでしょう。
ここで一つ疑問に思われるかもしれません。「では、なぜ日本人は朝鮮通信史にあれほどもの珍らしそうに集まってきたのか」。それは朝鮮民と朝鮮両班との身なりがあまりにもかけ離れていたからでしょう。朝鮮という国は日本と違って徹底された階級社会でした。両班の身なりは民衆とは格別に違いがあったので日本国民にとって衝撃を与えたと考えられる。
日本は朝鮮侵略をしておきながら、朝鮮人は日本人と仲が良かったという、一見相反することが現実にありうるのです。日本人は二面性を持っているのですよ。それも朝鮮人が徹底された階級制度であったことも理由の一つでしょう。特に両班の子供は英才教育を受けていて、漢字が読めたために、日本の民は驚き、重宝したり、僧として日本に残り尊敬したという話も残っています。
このような一見相反する話ですが、日本に現存する朝鮮鐘に伝わる話からもこのことを伺うことが出来る。
日本に現存する朝鮮鐘の数は、63口にも上るのですが、その中には、倭寇や秀吉の朝鮮征伐のときに日本が略奪したものだけでなく、驚くことに朝鮮から日本に贈呈されたものまであることが分かっています。一見、相反するように感じますね。朝鮮鐘は、日本が奪ったものなのか、もらったものなのかどっち?と聞きたくなるだろうが、実は、両方、事実なんです。あるコメンターも言っていたことですが、李氏朝鮮では仏教弾圧をしてましたし、また、朝鮮では職人は身分が低く扱われていましたので、その点、日本では職人を歓迎してましたので、日本に朝鮮仏画や鐘を譲ったという話も真実であっても不思議ではないのである。
単細胞な方は、ここのところが分からない。
李氏朝鮮は仏教を弾圧しただから仏画や仏像を日本に贈呈したのだ!だから、秀吉が仏像を盗むはずがない!これは朝鮮人の歴史捏造である!仏像を譲ったから受け取ったのに、盗んだと解釈することは何事だ!朝鮮人の頭はキチガイだ!・・・と。
しかし、実際は、贈呈したものも存在し、かつ盗んだものも両方存在するのである。そんなことも分からないのが今のネトウヨなんでしょう。人は十人十色。今も韓流にはまる日本人もいれば、嫌韓流にはまる日本人もいる。当時も、日本人と仲良くしていた朝鮮人もいるし、朝鮮人を軽蔑していながら、両班だけは尊敬の目でみる日本人も存在した。いろんな日本人が存在しているのである。よって、奪ったものもあれば、譲り受けたものも存在する。これが現実なのである。この世は、単純ではないんです。いろんな相反するものが複雑に存在しているのがこの世の中というものです。相反するものが存在するはずがない!なんて、考え方が単細胞というか、それこそ感情論ですな。
また、単細胞な方はこう思うだろう。
敵国であるはずの朝鮮人が、日本人に協力するなどありえない!そんなことをするはずがない!・・・と。
でも、実際、 前回ブログでお話したように「沙也可」という日本人が朝鮮側に寝返っているのである。また、その反対に日本側に寝返った朝鮮人までもが存在する。今日はその方のお話をしましょう。
「朱嘉全」という韓人をご存知でしょうか?
この韓人は全羅北道南原城の住人であり、身分が低い者で、島津勢が来航するに当たって日本側に寝返り、道案内をつとめ、城内の様子などをことどとく島津軍に教えた人物です。その後、戦いが終わり、日本軍が撤収するということになったとき、母国に残れば殺されるということで島津氏に頼み入り、その家臣となって日本へ渡ってきて、日本姓をもらい鹿児島城下に住むことになった。
また、このような話も残されている。
日本軍が秀吉の死によって敗走することになり、船体は矢が無数に突き刺さっていてハリネズミのようだったようで、帰りは兵糧船で帰ることになったのだが、兵糧船が空船であったため、船が浮きすぎて使えなかった。そこで「きっ水」を安定させるために、朝鮮人捕虜をきっ水を安定させる「おもり」として沈姓らの人々を乗せて帰ったのである。この韓人たちは、故郷へ帰りたさの余り、狂乱したように乗ってきた船にすがりつき砂を叩いたという。その後も日本に住みつき釜を築き茶碗類を焼き、野を拓いて生活をしていた。数年後、「朝鮮人がなにやら妙に光るものをやいておるそうな」といううわさを島津藩の当主が耳にし、「すべて鹿児島城下に居住せよ。屋敷も与え、保護も加える。」と命令したが、命令に背くことは死罪もありうることだというのに、沈姓らの人々は、この命令を次のような理由で拒否した。
「鹿児島には「朱嘉全」という韓人がいると聞く。彼は裏切り者である。君父の敵はともに天を戴かず。」
要するに「朱嘉全」のような、日本側に協力した朝鮮人が居るんですね。
よって、秀吉の朝鮮侵略で日本側に着いた朝鮮人職人がいてもなんら不思議ではない。と私が思うのも自然なことではないでしょうか?たとえば石垣の技術者だとか・・・。
また、秀吉軍は、朝鮮人に明までの道案内をさせただけで、侵略などではなかったと言い切る方もおられる。このような勝手な想像で歴史を語り広げられちゃあ、日韓共に、たまったもんではありませんな。
では、次回、熊本城の石垣で有名な「武者返し」について、もう一度丁寧に取り上げましょう。