私がOLになった時にススキノには「屋台団地」と言う名の一画がありました。


ススキノの中心から一番西側の南5条西7丁目。


中に入った事はありませんが、見た目で多分、畳2畳くらいの小さな屋台作りのトタン屋根で長方形の形をした小屋の様な店がが何件もズラッと並んでいました。


屋台団地とは書いては、ありませんが誰もが、そう呼んでいました。


表通りに面した店から中が見えます。


私は好奇心を抑えられなくて、その建物の通りを歩きながら中を覗く様に見渡しました。


外からは小屋の全部は見えなくて真ん中から上だけが開き扉で見える造りでしたから覗く様にしないと見えないのです。


狭い店内にカウンターがあり丸椅子が2つ並んでいました。


売春防止法が施行される前はススキノには赤線地帯があり、男性が性を目的に女性をお金で買う場所が菊水辺りにあったそうです。


その昔、北海道開拓者の為にススキノには本物の花魁達が関東の遊郭から連れて来られて南6条西4丁目に店を構えていたのは本当の話です。


−ネット参照 ススキノに渡って来た遊郭東京堂と言う店の花魁−



当時、北海道を開拓に来た沢山の男性達がいたそうです。

しかし、辛い肉体労働が嫌になり長続きせずに仕事を辞めて郷里に戻る人も多く官の政策者の悩みのタネだったとか。

娯楽施設が何も無かった時代。

ススキノは植物のススキが沢山生えていたからススキノ(薄野)と命名されました。


−ネット参照 ススキノ遊郭発案者−


そこで官が中心になり関東の遊郭から花魁を連れて来てススキノの今の南6条西4丁目一帯に遊郭を作ったそうです。


−ネット参照 ススキノ遊郭地帯−



その場所の一部は今は、稲荷神社と言って神と仏を祀っている珍しい場所で良く境内を見ると古い石に遊郭の跡を思わせる部分が残っています。


この世には男と女しか、いません。

LGBTの方を除けば、男と女の間には必ず性の関係が生まれる物なのです。


ススキノに遊郭が出来ると、それは賑わったそうです。


男の活力の源は性欲を解消する事から始まるのは今も昔も変わらないのですね。


売春取締法が施行されるまでススキノには花魁がいました。

取締が厳しくなると場所をススキノから白石区に移し営業していたそうです。


その名残が赤線と呼ばれる地域。

赤線は女性が寝起きする場所で男性から性の代償として、お金を貰う。

反対に青線と言うのは女性が寝起きする場所以外で飲み物を提供して更には体も提供し代償としてお金を貰う。


赤線の方が衛生面が厳しくて働く女性達は毎週の様に性病の検査をしていたそうです。


そう区分けすると

ススキノに、あった屋台団地は青線になります。


各小屋の中には一人だけ女性が立っていました。

お客がいないと前を通る男性に良く声をかけていました。

「お兄さん、寄っていかない?」


お客が入ると開いていた上の扉が閉まります。

せいぜいビール一本を飲ませて本題に入ると思われます。


お客の目的は初めから決まっているから屋台団地に入って行く訳です。

閉まった扉の中では、相手をする女性と値段交渉が行われたと思います。


屋台団地の路地を挟んで3軒の旅館が建っていました。

屋台団地専用の様な旅館。


値段交渉が決まった店は屋台の中の電気が消えて暗くなります。


何件の屋台小屋が並んでいたか?

少なくても24軒くらいは、あったと思います。


そこを仕切っていたのも女性でした。

背が小柄で、かなり太っていました。

衣類は男物で髪は短髪なので見た目は男性に見えました。


その小柄な女性が束ねて女性達から、きっと場所代を徴収していたのでは、と思います。


屋台団地に立っていた女性達は若い人はいなくて40歳位の年齢の人が大半でした。


どんな人生を歩んで屋台団地に辿り着き、そこから、どんな人生を歩まれたのかは計り知れませんが、きっと苦しみや悲しみは半端の無い人生だったのではないかと私は思います。


良く男性は軽く、こう言います。

「女は、いいよなぁ体一つで稼げるからなぁ」

と。


確かに言葉に偽りはありません。

体一つで稼げます。

しかし、それを決めて、それで生きて行くには相当の覚悟がいるはずです。


産まれつきセックスが好きならまだしも、そんな女性を私は知りません。


悩んで苦しんで涙を流して

様々な事情を抱えて仕方なく


そう言う事情の人の方が多いと思います。


時代の流れに屋台団地も逆らえなくて取り壊しが決まりました。

その頃、営業していたのは数える程の屋台でした。


立ち退きなのか?

例の小柄な女性の土地なのか?

そこは不明ですが、最後まで屋台団地で体を張って働いた女性数名には、その小柄な女性が一人一人に退職金かわりに1000万円を渡したのは有名な話です。


見た目は、いかがわしく見えた屋台団地の狭い世界で働く女性達は皆が、その胸の中を決して見せず笑顔で働けたのは、同じ境遇の女性達が、いつも側にいたから、きっと一人じゃなかったからだと思います。


それぞれが励まし合いながら働いていたのではないでしょうか。


昔は貧乏な家に産まれると口減らしと言って女の子は体を売られました。

辛い時代です。


今の時代には有り得ない事が、ほんの数百年前には当たり前の様に行われていました。


ススキノは遊郭が出来て栄えた街です。


沢山の女性達の涙と汗のが染み込んだ土地が、正しくススキノです。


きらびやかなネオンが輝く世界の裏側には女性達の悲しみや苦しみがある事を私は忘れたく無いのです。

(ススキノに限らず)



−話は続きます−