私が彼女に初めて会ったのは私が33歳くらいで彼女は私より5歳位お姉さんでした。


切れ長な目で日本人形の様な素敵な人で小柄な体型が若く見えました。


黒くて艶のある長い髪が印象的でした。


当時、札幌にはヌード劇場がありました。

有名なのは札幌コマ劇場。


私の店より少し南側の狭く薄暗い中道に、その劇場はありました。


ゼロ番地と言うビルの横です。


初めて会った時、私は彼女が札幌コマ劇場のダンサーだとは知りませんでした。


私のお店のご贔屓さんが私のお店で食事をする為に一緒に来店されました。


彼女の粋な話し方に私は

「水商売の方?」

と思いましたが私から聞くのは私の中のご法度です。


お酒が強くて

「アハハハ」

と良く笑う方。


何回か来店された、ある日の帰り間際に彼女から名刺を頂きました。


「琴絵と申します」

渡された名刺には札幌コマ劇場のダンサーと書いてありました。

そこで初めて私は彼女の仕事を知りました。

名刺の裏には

「藤間流名取 藤間藤琴」

と日舞の名取名が書いてありました。


その後、琴絵さんは夕方と夜の舞台の合間に時々、私のお店に彼女のファンの男性と来て下さいました。


通われる内に琴絵さんは自分から身の上話をする様になりました。


「私の母は日舞の先生で私が3歳の誕生日から日舞のお稽古を始めたのね。ただ筋が悪かったから良く扇子で叩かれたのよ。日舞の振り付けより痛みの方が記憶に残っているわ」


聞くと家柄はお父様は学校の教員、お母様は日舞の先生と固い家庭に育った様です。


生まれ育ちは函館で自宅には板張りの日舞のお稽古場もあったそうです。


琴絵さんは左側の頬から首に少し薄いアザがありました。

それを長い黒髪で隠すようにしていました。


琴絵さんはお酒に強く次の舞台には決して影響が無い様に私のお店でお酒を楽しんでいました。


私のお店から札幌コマ劇場まで歩いて5分も、かかりません。


ある日、琴絵さんから

「ママ、私が何故ヌードダンサーになったと思う?」

突然の質問に答えられずにいると琴絵さんは話し始めました。


「私は父が教員で母は日舞の師匠の家に産まれて、それは厳しく躾けられたの。方苦しくて重苦しい自宅に帰るのが嫌で学校帰りに良く海の見える丘で風に吹かれながら過ごしたのよ。門限ギリギリに帰ると、すぐに日舞のお稽古。それから家族で夕飯。その後は、お風呂のない日は寝るまでお勉強。そんな青春時代だったの」


話し始めるとお酒も進みました。

私のお店には常時80種類の日本酒を扱っていて、それらは特注の冷蔵庫で保管していました。


初めて来店された時に日本酒がお好きだと知り静岡産の

「おんな泣かせ」

と言う名の日本酒をお勧めした

ら、すっかり気に入られて

「美味しいわ」

と喜んで飲んで下さいました。


それ以来、琴絵さんの飲むお酒は「おんな泣かせ」に決まりました。



−ネット参照−

私はお酒は飲めません。でも仕事上、味を知らなくてはなりませんでした。
日本料理と地酒を売りに商売をしている以上、味がわからないとは言えないのです。

私は小さなお猪口に日本酒を注ぎ口に含み
「ずーーー」
と音を立てて日本酒を口に空気と一緒に含んで口の中の舌の上で日本酒を転がし味を知り次に口を閉じて、その空気を鼻から出して香りを知る。それから口の中の日本酒は吐き出す。
何回も練習してお酒の飲めない私でも、お客様が飲みたいお酒を選べるようになりました。

「おんな泣かせ」は絵柄が何となく琴絵さんの雰囲気かな?と思い選びました。

お酒を飲みながら琴絵さんのお話は続きました。
「母は私に日舞の跡を継がせなかったようなんだけどね、、」
一瞬、言葉が止まりました。
私は黙って琴絵さんの横に座っていました。
少し遠くを見る様な眼差し。
「函館のお祭りにね17歳の時に友達と行ったのよ。浴衣を着てね。そこには沢山の露天が並んでいて私は金魚が欲しくて金魚釣りをしたの。私は下手でモナカが、すぐに曲がってしまって。そうしたら金魚釣りの露天のお兄さんが、あまりに釣れない私を見ながら笑うのよ。そして一匹の赤い小さな金魚をビニール袋に入れて私にくれたの。私はお金を払おうと思ったら、もう10円しか残ってなくてね、明日、持って来ますって言って恥ずかしくて走って友達と神社の通りを後にしたの」

「で、翌日に又、行ったのよ。金魚釣りの場所に。そうしたら、昨日のお兄さんが、お金はいらないって。その代わりお祭りが終わる日に喫茶店で会わないか?って言われて。私は金魚代を払っていなかったから素直に、はい、と答えて神社の下にある喫茶店で待ち合わせしたのよ。そこから私の人生が変わったの」

金魚売りの彼は19歳で歳も近く喫茶店でのデートでは話が楽しくて、すっかり彼の事を好きになったらしく。
高倉健さんに似ていたわと話していました。

それから1年が過ぎたお祭りの日に琴絵さんは又、金魚売りのお兄さんが来ていないか露天に出向くと彼が琴絵さんを待っていたかの様な顔で琴絵さんを見つめてくれたそうです。

見つめ合う二人の瞳に恋の炎が映った瞬間だったのでしょう。

お祭りは一週間で終わります。琴絵さんは次に会えるのは又、来年になるのが待ちきれなくて、意を決して自宅には置き手紙を残して、お祭りの終わる日に小さな風呂敷に着替えを包んで彼の車で家出したそうです。
後から考えると良く、あんな事が出来たと自分でも驚いたそうです。

露天商ですから街から街を渡り歩く生活。
それでも今までに味わった事が無い自由な生活が琴絵さんは楽しかったと話していました。

最初は金魚売りを手伝っていたそうですが、それでは二人が食べて行けず。
琴絵さんの彼がヤクザだと知ったのは家出してからすぐだったそうです。

固い家で育った琴絵さんは水商売すら知らず、それでも彼との生活の為に旅先の彼の兄貴分の紹介でスナックで働く様になって。
そんな中、彼から、もっとお金が稼げる仕事があると言われ、ソープランドに連れて行かれそうになった時に琴絵さんは、体は貴方だけの物だから嫌だと首を決して縦に振らず泣きながら抵抗したそうです。

絵に書いた様な話しです。
若いヤクザに惚れて風俗嬢になる話。

その時、琴絵さんは日舞で稼げないかと彼に話したら、ヌードダンサーなら稼げると言われて自らヌード劇場に面接に行ったそうです。

日舞で名取を持っていた琴絵さんは面接は合格。
次の日から先生が付いて練習が始まり、あっと言う間にデビューの日になったそうです。

初めて踊ったのは東京の新宿コマ劇場。
後に琴絵さんは
「あんなに緊張したのは産まれて初めてだったわ。でもね、一回の舞台を無事に終わらせると次からは何の恥じらいも無くなったのよ。逆にね拍手してもらえるのが嬉しくて」
と話していました。

まだ20歳の琴絵さんは若くて日舞が上手で、それは沢山のファンが付いたそうです。

「母からは扇子で叩かれてばかりだった日舞なのに劇場では皆が手を叩いて喜んでくれるの」

確かに裸体を晒す仕事だけれど琴絵さんは裸体には彼以外の男性の指一本も触れさせず踊りで稼いるのが私の誇りなの、と話していました。

ヌードダンサーは巡業があるので定まった場所に長くはいられません。

琴絵さんが久し振りに私のお店に来店したのは、一年が過ぎた頃でした。

いつもと変わらず明るい笑い声に長い黒髪。
「ママ、私、札幌で引退ショーをする事に決まったの。実はね私には彼との間に一人息子がいて、私が巡業の時は彼の実家で育ててもらっていたの。でね、彼が刑務所から出所する事が決まって、これからは、やっと家族水入らずで生活が出来るの」
私は知らない事ばかりで驚いていると琴絵さんが
「ママ、必ず私の引退ショーに来てよ」

私はススキノでは働いていましたがヌードショーを見た事はありません。
とっさに
「女性でも入れるのですか?」
と尋ねると
「最近は女性客も増えてるのよ」
琴絵さんは切れ長の目をまん丸くして私に言いました。

私は承諾して最終日に行く事にしました。
頭は帽子を深く被りサングラスをして薄暗い路地に入りました。何故か悪い事でもする様なスタイルでした。

薄暗い路地には数え切れない程のスタンド花が立っていました。
引退ショーに琴絵さんのファンが贈った花、花、花。

チケットを買う場所で私は
「一枚下さい」
と言うと小窓の向こうから
「女声は割引がありますよ」
と声が返って来ました。

チケットを買い中に入りました。
私は知り合いにだけは会いません様にと祈りながら一番後の端の席に座りました。

暫くすると、席は満席で立ち見まで。

狭い劇場に沢山の男性客。人の熱気が伝わってきました。

ホールにアナウンスが流れました。
「皆様、皆様、本日はようこそ札幌コマ劇場にお越し頂きありがとうございます。お待たせ致しました。只今より琴絵さんの引退ラストショーの始まりです。では皆様拍手でお迎え下さい」

クセのある話し方。

話が終わると一瞬、劇場内は真っ暗になりました。

そして正面のステージにライトが当たると中央に琴絵さんが。

花魁の姿で後ろ向きに立っていました。

劇場内は
「待ってました!」
と拍手の渦です。

流れる曲に合わせて舞を踊る琴絵さん。
帯を外し、一枚づつ着物を脱いで左に右に優雅に色っぽく踊ります。
最後の一枚は美しいシースルーのレースの長襦袢でした。
赤い襟が印象的でした。

長襦袢の紐を取りながら、せり出す台の上で琴絵さんは勢い良く長襦袢を脱ぎ捨てました。

真っ白な裸体がピンク色の照明に映し出されました。
その時、私は始めて知りました。
琴絵さんの左側の背中に二羽の鳥が彫られていました。
青い鳥と赤い鳥が重なる様な図柄でした。
きっと彼と琴絵さんなのだと思いました。

せり出す台は少しづつ上に上がります。その台の上で横たわる琴絵さんはパンと両足を広げました。

ここでファンの皆様から掛け声や拍手が湧きました。

足を色々な角度に変えながら裸体の琴絵さんは、それは美しく妖艶でした。

琴絵さんの花びらは毛が全て剃られていて、まるで、お化粧を施しているかの様に綺麗で照明が当たると輝いて見えました。

私は始めての経験。
男性は構造的に自分のモノや他の男性のモノを目にすると思いますが女性は鏡を股の間に入れない限り自分の花びらを見る事が出来ませんし、そんな事をする人は殆どいないと思います。

舞台の琴絵さんは、どんなポーズを取れば自分が一番、美しく見えるか熟知している様でした。
見事な踊りでした。
琴絵さんにファンの目が釘付けになっている間、私は彼女の話を思い出していました。

「私ね、初恋の相手と一緒になれて幸せなの。例え彼がヤクザでも。確かに若い時はお金が無かったからソープランドに行ってくれかいかとは言われたわ。でも私の体は彼だけの物だから私はヌードダンサーになったの。彼の為にね。この時は芸は身を助ける、の意味を思い知ったの。でね、妊娠した時は私は彼に捨てられるかと思って怖くて中々、言えなかったんだけど、凄く喜んでくれたの。子供が産まれて直ぐに函館の実家に孫を見せに行ったんだけど玄関を開けてくれなくてね、その時に私は私の生きる場所は彼の所しかないと本当に思ったの。ヤクザの兄貴分の罪を被って服役してるけど、これからは親子水入らずで、やっとくらせるの。それが嬉しくて。私には彼しかいないのよ」

そう話した琴絵さんの話が私の頭の中をぐるぐる駆け回っていました。

ショーが終わり琴絵さんからご挨拶がありました。

「皆様、長い間、琴絵を応援して頂きありがとうございました。琴絵は皆様に育てて頂いて今日の日を迎える事ができました。これからは母親として生きて行きます」

劇場内は割れんばかりの拍手でした。
そしてファンから1万円札をネックレスにしたご祝儀が沢山、琴絵さんの首に飾られました。

彼女は母親と言う言葉を正々堂々とファンの皆さんの前で語りました。

なんて潔い良いのだろうと思いました。

琴絵さんの姿からは苦労してるの、とか辛いの、とは微塵も感じられませんでした。

彼女はヌードダンサーを卑しい仕事では無くて芸術だと話していた事がありました。

周りからは卑猥な仕事と思われる事が多いけど私は舞踊を披露しているのよと話す時は仕事に誇りを持っていました。

親のレールに従っていたら私は、こんなに様々な人に愛されたり可愛がられた人生は送れなかったわ。
一番は初恋の人と結ばれて息子を授かり、舞踊で生きて来られたのが幸せなの。

人の幸せは、その人にしか、わからないものです。
傍から見れば不幸に見える人も、その人には幸せな事なのかもしれません。

価値観の違いは顔の違い程、あると私は思います。

琴絵さんは情の深い人だったのです、きっと。

引退ショーが終わり琴絵さんは彼の実家のある千葉に向かいました。
千葉で息子と彼の出所の日を待つと話していました。

きらびやかなススキノのネオンから素敵なダンサーが一人、去りました。

きっと、今も幸せに暮していると、そう思っています。
そう願っています。


−話は続きます−