実は一週間くらい前から体調が悪くなり、加えて左肩が凄く痛くて。
かかりつけ医から抗生物質の薬を出して頂き飲んでいます。
一人暮らしの前期高齢者の私は体調が悪くなると正直、生活に不安を覚えます。
今日の札幌は晴れて良いお天気です。屋根の雪が融けて雨だれの様な音が窓の外から聞こえて来ます。
−ヤクザの娘に産まれて−を1月4日から書き始めて早くも3ヶ月が過ぎました。
誰にも話した事の無い私の中では封印していた事。
封印を開き記憶に残っていた事を改めて思い出し、古い写真から真実を見つけて書き続けて来ました。
思い出したく無い事も真実を書くと決めたので書いてきました。
幼い頃、何故、私の父はヤクザなのだろう?
と思っても誰にも聞けませんでした。
母にも聞けませんでした。
聞く事は母を悩ませる事になると幼くても思っていました。
当時は今のニュースで話題になる様な事は決してありませんでした。
特殊詐欺の様に一般の若者が高額な日当を目あてに簡単に犯罪に手を染める。
そんな事件は一切ありませんでした。
暴対法が施行され今のヤクザは生きづらい時代になったのだと思います。
日本の警察は優秀だとしても
イタチごっこは、まだまだ続くと思います。
札幌でも宮の森(みやのもり)
福住(ふくずみ)と言うお金持ちが多く住む地域で毎日の様にアポ電と呼ばれる「○時にいる?」電話が頻繁にかかって来ているそうです。
父が現役のヤクザの時は任侠で生きていました。
義理人情を重んじて、決して堅気の人を騙したり、お金を巻き上げる、そんな事をしなくても生きて来れました。
私は、ある部分が凄く父に似ています。
ヤクザの娘ですからヤクザは怖くも恐ろしくも無く、理不尽な時は相手が男性でも、くってかかります。
弁が立つ父に似ていて私も口では負けません。
(自慢では無いです。真実です)
これは後にススキノで商売を初めた時に大いに役に立ちました。
ススキノで生きるのは時には体を張り従業員や店を守らなくてはならない時があります。
一度だけ父の名前を出して助かった時がありました。
それは
前に書いた初めてススキノのクラブでバイトした先のママが
店舗移転の際に新しいお店を手伝って欲しいと言われた時。
私はママには雇って貰った恩があるので即答で返事をして手伝いに行きました。
しかし、この時に私には料理屋を出す話が来ていたのです。
ママの新店舗を手伝いながら昼は料理屋の打ち合わせを進めていました。
ある日、私はママに料理屋を出すので辞めたいと話しました。
その翌日、当時ママがお付き合いしていたヤクザの親分から私に直接、電話が来ました。
「Tだけど、お前ママの店を辞めるのか。店の女の子を引き抜きしたら、ただじゃおかないからな!店を開けられない様にしてやるからな!」
と最初からドスの効いた声で怒っているのが伝わりました。
ママが愚痴ったのは直にわかりました。
余りにも一方的な話に私も腹が立ち
「T親分、私は料理屋を始めるのですからホステスさんは必要ありません。ママに言われたからって大の大親分が私ごときに因縁をつけるとは何ですか?!私は親分の兄弟分の〇〇の娘です!!」
と。
私は若さも伴い又、一方的な話に腹が立ち大きな声で大親分に話していました。
私が〇〇の娘だと知ったT親分は急に声が小さく穏やかになり
「そうだったのか!それなら話は別だ。開店日を知らせなさい。祝儀をだすから」
と少し函館弁のなまりが混じった話し方で納得してくれました。
回転当日、大きな花輪と膨らんだご祝儀袋が届きました。
この時は父の名前に助けられました。
それから誰から誰に私が〇〇の娘だと伝わったのかは、わかりませんが私がススキノで商売を続ける間中ヤクザに、からまれたり嫌がらせを受けた事は一度もありませんでした。
そんな日もあったわと思い出して書いています。
−話は続きます−