就職先は中高と変わらず女性が多く、そして女性が花形の職場でした。


特に生命保険会社はセールスレディの売上が会社を支えています。


今の様にネット申し込みの無い時代です。

セールスレディ達は自分の足で歩き保険契約を取ります。


中でも支社トップのセールスレディは毎月の月給が当時で50万円以上あり賞与の時は、帯の付いている一万円札が何束も。

一つの封筒に入りきれず何枚かの封筒に入れた覚えがあります。


そのトップの方は地味で小柄。

他のセールスレディの様にワガママも言わず、黙々と仕事をこなしていました。

ある日、私は彼女の靴に目がいきました。

彼女の靴は外から見ていても底が減り傷んでいるのが、わかりました。

その靴を見た時、さすがトップの成績を取る人は歩く数が違うのだわと感心して尊敬さえしました。

私が保険会社に在席していた間、彼女はずっとトップの席に座り続けていました。


セールスレディ達が気持ち良く働くために私達、内勤も気配りしましたし、その様に教えられました。

セールスレディが保険を取るから内勤の私達も給料が貰えると良く上司にいわれました。


まだコンピューターが導入される前、経理の私達は何百人のセールスレディや内勤の給料計算もソロバンでした。

現金支給でしたから、数字が合うと現金を手書きの明細と一緒に封筒に入れる作業に移ります。


一度で数字が合うならニッコリですが1円の単位までの計算は時には何度も合わず締め切り時間に追われ苛立ちながらソロを弾いた時もありました。


先輩から差し出された日捲りの練習帳のお陰で私のソロバンの腕は負けず嫌いな性格もあり日に日に上達しました。

(これには感謝しています)

日捲り帳が捲れない程、練習しました。


間違えると叱られます。

合っていると、それが当たり前ですから褒められる事はありません。


小さい時は家に守られ。

学生の時は学校に守られ。

働く様になると誰からも守ってもらえません。

お金を頂くと言う事は全ての責任を自分が負うと言う事を働く様になり私なりに学びました。


私の先輩は妥協を許さず、仕事に人生を掛けている様な人でした。

恋人がいたら家庭があれば残業しないで定時で帰っていたのかしらと先輩を見ながら心の中で思い毎日、残されて仕事をしていた私。

(先輩は独身を貫き定年まで会社に自分の人生を捧げました)


年の近い先輩達は彼が車で迎えに来て、にこやかに帰って行きました。

その後ろ姿に私は何時に帰れるのか?と絶望的な気持を持ちながら羨ましく

「お疲れ様でした」

と見送っていました。


でも同期の二人は、会社の近くの喫茶店で私の仕事が終わるのを待っていてくれました。


まだ、その時は遅くても夜8時には仕事を終えられました。


同期二人が待つ喫茶店に私は着替えて急いで向かいます。

これが日課になりました。


そして誘われるままに夜のススキノに繰り出します。


当時は沢山のディスコありました。

そうです!

ディスコで踊る事が唯一の発散になる日々になって行きました。


15歳でMに初めて連れて行かれた当時は踊り場。



20歳を過ぎてからはディスコと言う名の華やかな世界に足を踏み入れて、そのディスコ通いは、ほぼ毎日続いて行きました。


−話は続きます−