中学は父が引いたレールに乗り小学6年の時に試験を受けて合格さた学校に通いました。

中高一貫校の、その学校は女子校で高校受験は無くエスカレーター式で高校に上がれました。


ただし、厳しい校則でしたから途中で顔を見なくなる同学年の友達が、かなりいました。


そうです。

強制退学です。


大体は中学生の時に強制退学になり高校に上がると学友の顔ぶれは変わらなくなりました。


学内で私がヤクザの娘だと知っている人もいなく伸び伸びと過ごせた青春時代でした。

(何故なら殆どの生徒が全道から受験して集まり住いの学区内の生徒はいなかったからです)


就職試験は誰よりも早く合格が決まり

いよいよ社会人になりました。


会社は札幌駅に近くビルの窓から道庁が見える札幌のオフィス街に自社ビルを持ち、その中に私の働くフロアーもありました。


新しい制服に腕を通し、気持ちは大人になった嬉しさで一杯でした。


就職の知らせを話す為に父が住むマンションに行った時

父から言われた言葉があります。

「〇〇、職場には絶対に友達は作らない様に」

「いいかい、パパの言う事を聞きなさい」

でした。

今でも覚えています。


私は小さい頃から父には

「何故?」

「どう言う意味?」

とは聞けない娘でした。


聞くと叱られると思い込んでいたからです。



「社会人になったら友達を沢山作りなさい」

そう言われると思っていた私でしたから反対の事を言われ戸惑いながら帰りました。


母に聞きました。

「パパに友達を作るなと言われたの」

母は

「パパの言う事に間違いは無いわ」

とだけ。

離婚しても尚、父に対する信頼を失わなかった母でした。


父から言われた言葉の意味が理解出来ずに時は流れました。


当時、生命保険会社の勤務は朝9時から夕方4時20分迄。

途中で早番と遅番の二交替で1時間の昼休みがありました。


私の最初の所属は経理。

社内では1番信頼の厚い部署です。

支社長の領収書の管理もしますから他言は禁物の部署でした。


−ネット参照−


まだ電卓が世の中に出る前でしたからソロバンは必須の時代でした。

普通校の私はソロバンは出来ません。

商業高校卒の先輩達はソロバン教室の先生の様な手さばきで見事に仕事を熟していました。


最初の先輩は偶然、母校が同じでした。

同じ母校だから優しくして下さるかなぁと思っていましたが

入社一日目にして私の甘い考えは打ち砕かれました。

言葉振りは優しいのですが会話の中に必ずトゲがあるんてす。

(先輩は生涯独身です。今お元気なら78歳です)


ソロバンの出来ない私に次から次と計算する書類が先輩から回されてきます。 

経理ですから当たり前の事です。


当然、ソロバンが出来ない私は急いで処理は出来ません。

動作の一つ一つに時間がかかります。

どうなるか?

決まって残業になります。


その度に

先輩は時計を見ながら、ため息を付きソロバンに時間が、かかる私を立ち上がり見ています。


流石に舌打ちは、しませんでしたが心の中では舌打ちをしていたかも知れません。


入社後7日間だけは夕方の4時20分、定時で帰社、出来ました。


何て素敵な会社!


一般の会社より早く帰れるので同期と、お茶したりウィンドウ・ショッピングしたり楽しく過ごしました。


それから怒涛の残業の日々になる事を知らない私達でした。


「良い会社に入ったわ」

「こんなに早く帰れるなんて」

と気楽な気持ちでいました。


入社後、一週間を過ぎたある日の帰り際に経理の先輩から、ある物が私の目の前に投げられました。


「今日から帰宅したら毎日、それで練習しなさい」

と命令です。


それは手捲りしながら足し算引き算のソロバンを練習する分厚い練習帳でした。

私は負けず嫌いな性格。

「わかりました」

と先輩には笑顔で答え

腹の中では

「今に見てろ」

そうです。

小さい頃にヤクザの娘とイジメられた時に必ず思った気持ちが蘇りました。

変なところが生真面目な性格の私は、その日から帰宅後、手捲り表でソロバンの猛練習を開始しました。



そして父が私に話した

「会社に友達は作らない様に」

の意味が、わかる日も私に訪れるのです。


−話は続きます−


☕ブレイクタイム☕


 ネットで買ったさつま芋羊羹が先程ポストに投函されました。

甘党なので大好きです

 

 同じくポストに投函された黒豆羊羹。母の遺影にお供えしました。500円ですから小さな羊羹でした