両親が離婚してからも母が一生懸命に働き私は物質的に不自由の無い生活をおくれました。

精神的には一人で過ごす夜は寂しいものでしたが、私の為に働く母には一度も寂しいとは言えませんでした。


たまに会う父は父で

小さい時と変わらずに

私を一流の場所に連れて行き

一流の物を見せ、味あわせ

身に着けさせてくれました。

その頃では、かなり贅沢な一時を過ごさせてくれました。


母は私が父に会う事を決して嫌がらず、いつも気持ち良く送り出してくれました。


離婚の理由を敢えて私は聞きませんでしたが

憎み合って別れたのでは無い事は理解していました。


父と離れて暮らす私は

父が一緒に居た時には考えられない程

伸び伸びと、その年齢を楽しみながら過ごしていました。


父の美的センスを遺伝したのか?

母のセンスなのか?

お洒落が大好きで良く4プラ(4丁目プラザ今は取り壊されてしまいました)パルコに洋服を見に行ったり、お小遣いを貯めて買う。それが一番の楽しみでした。

他の同い年の、お友達の誰よりもお洒落に気持ちの全てが向かっていました。


−お洒落が大好きだった19歳頃の私です−


他の同い年のお友達は、やはり年頃ですからボーイフレンドとの時間を楽しんでいる人が大半でした。


当時、若者の間で流行っていた車スカイラインでボーイフレンドが迎えに来たり。



父に厳しく躾られた事は

私の毛穴から私の肉体に染み渡り誰からも

「良いお嬢さん」

と呼ばれるうちに

父の厳しかった躾のお陰だと気付いて行きました。


褒められる事は心地良い事です。


ヤクザの娘だからと人様に後ろ指を指される事は一切ありませんでした。


小さい時には理解出来ない事でしたし

ただただ、父に叱られたくない気持ちで父の言う事に従い大人しくしていた私でした。


私が成長するに従い父の躾の意味を理解出来る様になり

その頃には父に感謝する気持ちが湧くようになりました。


そんな厳しい父の躾が私の将来を変える日が来ました。


ある夜

母がススキノの勤め先からお客様を連れて帰宅しました。


「〇〇起きてご挨拶しなさい」

母に言われるままに私はベッドから起きて寝巻から着替え居間に行き

いつもの様に三つ指を付いて

「いらっしゃいませ。母がいつもお世話になっております」

とご挨拶しました。

そして急須に1番上等なお茶の葉を入れて、お湯を注ぎ

その、お客様に差し出しました。


そのお客様は母が昼間、働いていた生命保険会社の支社長さんでした。


深夜に訪問し、嫌な顔一つせず、三つ指を付きご挨拶し茶を入れる。

私の立ち振舞を見た支社長さんが、たいそう私を気に入られて

後に私は、その保険会社の就職試験を受ける事になります。


母が翌日に私に

「支社長さんが〇〇を見て今どき、あんな挨拶をする娘さんを見た事が無いと話していたわ」

と娘が褒められた事を嬉しそうに話していました。


−話は続きます−


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