父がヤクザだったからなのか?

理由は、わからないが、

いつも大人の男性や父の子分達が出入りしていた我が家です。


幼い時から私は私の年齢の子供達より、大人の世界を見て過ごして来ました。


両親が離婚する前の

大きな一軒家の二階では

沢山の男衆が集まり

父が主催する

8ミリフィルムでポルノ映画を上映する会が定期的に行われていました。

今の様にビデオやDVDの無い時代です。


−ネット参照 8ミリフィルム映写機−


昼間、カーテンを閉めきりカーテンの隙間から、僅かな光が入る二階の和室。

壁には、ぴしっとアイロンのかかったシワ一つ無い白い綿のシーツを、かけていた記憶があります。

部屋に8ミリフィルムが廻る機械の音が響きました。

その音は一階にいる子供の私にも聞こえました。

(もちろん私は映像は観ていませんが大人の男達の様子で何か、いかがわしい事なんだとわかりました)


集まった男衆は息を飲んで真っ白なシーツに映る白黒のアダルトな映像を観ていた事でしょう。

当時、音声は無かったと記憶しています。


そんな日は、決まって父は

「〇〇は2階には上がらない様に」

と言いました。


父と兄弟分の盃を交わした堅気で札幌では大手の、おしぼり屋さんの社長から(今でも会社は存在しています)

男女の営みを描いた四十八手(今だから理解出来る)の絵が印刷された日本手ぬぐいが届いたり。

(これは中身が何か知りたくて1枚、盗みました。描かれていた絵は江戸時代の格好をした男女が様々なポーズを取っていましたが私には全く理解出来ない絵柄でした。後で処分するのに凄く困りました)




−ネット参照−


お正月には家族、親戚一同で

当時、札幌一大きなキャバレー「月世界」行き

ヌードショーを観たり

(ショーが始まると母は私が舞台を見えない様に座り直させました)


−ネット参照−


父が、お座敷に呼んで芸者遊びをしたり


お正月に日本髪に飾るかんざしに稲穂が下がるのがありました。縁起物らしく芸者さんの一人が私に

「お嬢ちゃん、年の数だけ稲穂を食べるのよ」

と教えてくれました。


同年代では経験をした事の無い様な事を経験した幼稚園から小学校低学年。



仲良しMに連れられて行った

ススキノの踊り場「マックス」私は15歳でデビュー。


その、踊り場に来ていた中学生は誰もがタバコを吸っていました。

もちろん仲良しのMも。


家からススキノは近く

踊り場マックスに行こうと思えば何時でも行ける環境でした。


ダバコはイタズラしましたが

むせて吸えませんでした。


当時、皆の様に大人びた洋服は持っていなく三編みの、お下げの私は直に中学生とわかります。


中学生のMには恋人もいました。

それは肉体関係を持つ恋人です。


Mからは何人かの男の子を紹介されましたが

私は内気でMの様に大人びてはいなかったので会うだけでした。



当時、札幌には同伴喫茶と言う名の喫茶店があり男子学生と数回、二人で行きました。

(名前だけだと、いかがわしい場所を想像しますよね)


カップルしか入れない同伴喫茶の造りは

列車のシートに似た二人がけの椅子が同じ方向に向いて一列づつあり入り口はカーテンで仕切られていました。

背もたれが、やけに高くて中に座るとカーテンが閉まります。

背もたれが高い椅子とカーテンで他の席は見えない工夫の店内でした。


同伴喫茶に行っても私は、メロンソーダーを飲みながら、せいぜい1時間いるくらいでした。


向かい合わせに座らないから恥ずかしさは無く内気な私でも異性と少しは会話が出来ました。


他のカップルはカーテンの向こうでキスしたり、色々。


私は、まだ中学生でしたからホテルに行くなんて考えてもいませんでした。


当時ホテルより金額が安く男女が過ごせる場所に旅館がありました。

旅館は通称「ドヤ」と呼ばれていました。

宿屋(やどや)から、その呼び名になったと思われます。


踊り場遊び、タバコ、異性関係。


仲良しのMは全て経験していて本当に大人っぽくて私から見ると色気さえ感じました。

そしてMは、とにかく異性にモテました。

人見知りしない明るくて朗らかな性格と大人っぽい体付きが異性にモテたのだと思います。


私は誰よりも非行に走る条件は整っていました。

先ず父がヤクザだと言う事。

両親が離婚後、母は仕事で夜はいません。

私は一人ですから、何時でも何処にでも行ける自由がありました。


夜遊、タバコ、異性関係。


当時は大通り公園で昼間から堂々とシンナーを吸う若者もいました。

シンナーを吸った若者が目をトロンとして街を歩いていました。


グレなかったのは私に勇気が無かったからか?


中学で強制転校させられた同級生や高校には進級しなかった仲良しのM。


私からみると皆、頭が良くて、素敵で、お洒落で大人っぽい学生でした。


私がグレなかった一番の理由は母を心配させたくない、母を困らせたくない、母を泣かせなくない。

その気持ちが凄く強く、そちらの道には行けませんでした。


もし、私が、そちらの道に行っていたなら

間違いなく強制退学させられていたでしょう。


「〇〇はヤクザの娘だからね」

と人々に言われたでしょう。


そうです。

「かえるの子はかえる」

です。



いつも私に優しくて大切に育ててくれた母。

父の暴力にも耐えて私を育ててくれた母。

離婚後は昼夜、働き何不自由無く私を育ててくれた母。


母を泣かせたくない思いは人一倍、強かったと思います。


それでも私は、たった一度だけ補導された事がありました。


北24条の良く行く喫茶店で仲間4人とタバコをいたずらしていた時、来ていたお客さんの誰かが警察に通報したのです。


警察官が数名、店内に来て私達は近くの交番に連れていかれました。


補導が初めてだったので学校に連絡は、されませんでした。

(不幸中の幸い)


身元引受人が来なければ帰る事が出来ません。


3人の仲間は其々、親が迎えに来て帰りました。

私の母は仕事があるので迎えに来る事が出来ず、同じ町内に住む看護師だった母の友達が迎えに来てくれました。


外は暗くなり一番最後に交番を出た私は、その看護師さんに付き添われてマンションに帰りました。


母が帰宅しました。

しかし、母は決して私を叱りませんでした。


私が補導された事も、以降、一度も口にしない母でした。


−話は続きます−