私は父の逮捕をテレビのニュースでは目にはしなかったのですが、その日の夕刊に小さく記事が載りました。
確か、土曜日の夕刊だったと思います。
小さな父の逮捕の記事を何度も読み、その日は母がススキノで働く間、眠れなくて母が帰宅する深夜まで起きて待っていました。
待っている間、時計の針の進み方が凄く遅く感じました。
帰宅した母に、すぐ父の逮捕の話をしました。
母は、遅い時間もかえりみずに
父と暮らす、あの人に電話をしました。
「一体、どう言う事なの?」
「娘がいるのに、貴女が付いていて、こんな事件になる事を起こすなんて!」
と母の口調も強かったと思います。
「私と暮らしていた時には絶対に覚醒剤には手を出さなかったのよ!!」
と。
あの人は母に何と答えたのか電話からは聞き取れません。
私は月曜日、学校の皆に知られていたら、どうしようと不安で、たまりませんでした。
あの人の説明では、接見禁止で勾留中の父に会いに行く事は出来ないそうでした。
母は私に
「〇〇、何も気にしないで堂々と学校に行きなさい。」
とだけ話すと自分の部屋に入って行きました。
私も居間の電気を消して私の部屋に入りましたが朝まで眠る事が出来ませんでした。
嫌でも月曜日は来ました。
母に見送られて学校に向かいました。
足取りは重かったです。
毎朝ススキノの地下鉄駅でボーイフレンドと待ち合わせして一緒に地下鉄に乗り通学していました。
月曜日も変わらず、ボーイフレンドは地下鉄駅で私を待っていました。
「大丈夫かい?」
と優しく言葉をかけてくれました。
私は頷くのが精一杯でした
その朝は、それ以外、余計な話はしませんでした。
私は心の中で、皆から後ろ指を指される、陰口を言われる、いや、直接、私に父親が逮捕されたのと話してくる人がいるかもしれない。
不安で胸がはち切れそうでした。
いつもの様に学校の正門をくぐり、上口に履き替えて廊下を進み教室に向かいました。
廊下で友達にすれ違うと
「〇〇おはよう」
と明るく声をかけてくれます。
教室に入っても
「〇〇おはよう」
と。
誰一人、私の父の話に触れる人はいませんでした。
私の不安だった心は学友達の明るい笑顔と、いつもと変わらない会話から不安の二文字が消えていきました。
父が逮捕された、それも覚醒剤で。
その話に触れる人は一人もいませんでした。
これは卒業するまで誰一人、私に対して、この話をする人はいませんでした。
私には不安でたまらなかった月曜日が無事に過ぎて、翌日から、いつもと変わらない学校の生活になりました。
それから何日か経った日に
あの人から
「今日、パパは無事に戻れるから」
と電話で知らせが届きました。
父の体からは覚醒剤反応が出なかったそうです。
後から知りましたが、覚醒剤を使用していたのは、あの人だったのです。
父はあの人の身代わりに逮捕されたのです。
あの人が父と暮らすマンションの冷蔵庫の中に覚醒剤を隠していて、誰かからの通報で(経緯は詳しく覚えていません)父の部屋に家宅捜索が入り、冷蔵庫の中の覚醒剤が見つかり、父はヤクザでしたから、それは父の物と決め付けられて、直に身柄を拘束されたのでしょう。
私は、それ以来、前の様に父に会うのをやめました。
正確には会うのが嫌になりました。
父からも前の様に食事の誘いの電話は来なくなりました。
父の逮捕のニュースは父の実家のある三笠市弥生町の私の祖母や叔父達にも知れ渡りました。
祖母は、寝込む程、傷心していたそうです。
既に両親は離婚していましたが、父方の叔父からは心配の電話がありました。
父が属する会津屋小高一家では覚醒剤は組の掟で絶対に手を出してはならない物でした。
実際には父が当事者じゃなくてもテレビのニュースで流れ新聞にも載った事件です。
ほどなくして、父は会津屋小高一家から破門されました。
父の破門状は札幌中のヤクザの組に、一家に届きました。
−話は続きます−