両親が離婚した後も私の氏は父の氏のままでした。


母と二人の生活になり、氏が違う母との暮らしに、それは時には不便なものでした。


しかし

母は母で学校を卒業するまでは氏は変えない方が良いとの考えでした。

氏が変わる事は必然的に両親の離婚が学内でも知られる事になります。

当時、私の通う学校では両親が離婚した生徒はいませんでした。

母なりに私に配慮して納得した事だと思います。


母は父を憎んだり恨んだりして離婚したのでは無く

父が決めた事に従っただけでした。

一度、決めたら後に引かない父の性格を一番、知っているのは母でした。

一軒家から母が必要だと思う最低限の家財道具を出してから

私は二度と、その家には近付きませんでした。

父が、いつ、その家を処分したのかも知りません。


私達は前の家から歩いて来られる場所で暮らす様になりました。

母は私が小さい頃から慣れ親しんだ場所から離れるのが可哀想だと、だから敢えて嫌でも前の家の側に部屋を探したのだと思います。


一階はピアノ教室を営む大家さんの住いでした。

その二階が私達の新しい家になりました。


父と暮らしていた家より

ずっと狭い部屋でしたが私には不満はありませんでした。


それより厳しい父と別れて暮らす自由のある生活が嬉しくて仕方がありませんでした。

何より大好きな母がいるのですから。

父の入墨を見なくて良い生活が始まりました。


住まいに内風呂は無く母とお風呂道具を風呂敷に包み夏は下駄を履いて銭湯に通うのが新鮮でした。

母に背中を洗ってもらい、私も母の背中を洗う。

温まった体に帰る時は、決まって脱衣所にある冷蔵庫からコーヒー牛乳を買って飲ませてくれました。


私の部屋からは一階の大家さんの手入れの行き届いた庭が見えて季節の花が綺麗でした。

大きく育った庭木が二階の窓まで伸び、その木々の葉の間から空を見るのが大好きでした。


今の様に離婚の時に慰謝料を貰える時代では無かったのだと思います。

ましてや、愛人に対して慰謝料を請求できる時代ではなかったのだと思います。


しかし

私は授業料が高い私立の学校をやめなくても通う事が出来たのは、きっと父から毎月、母に何かしらの金銭が渡されていたからだと思いますが、父と離婚した母の前で私の口から父の話をした事は無かったのです。


狭くても楽しい我が家

唄の歌詞にある様に私は母と仲良く暮らしていました。


初めて味合う自由な空気でした。


そんな中、別れた父からは頻繁に私に会いたいと連絡が来ました。


母は、父の言う事に離婚してからも逆らう事は無く

私は呼ばれると父の指定された店に出向き食事を共にする。


その時は必ず制服を着て行かされていました。

(校則に、お出かけは制服着用と明記されていました)


両親が離婚してからの方が私が父と会う時間が増えた。

不思議な親子関係が始まりました。


−話は続きます−