前に書いた通り沢山の写真の中を探しても探しても我が家には家族写真がありません。


膨大な写真の中から父と母の二人だけが写っている写真を2枚だけ見つけました。


母の弟の結婚式での1枚。
父32歳、母29歳頃と思われます。



多分、定山渓温泉での1枚。
「もう時間だから早く支度して下さい」
と心の中で言ってる様な少し機嫌の悪そうな母と、まだ布団から出ようとしない父に見えます。

何故、我が家には家族写真が無いのか?
今になって何故?と思う私です。

ブログを書く様になり、やっと見つけた父の写真。
それまでの何十年もの間、探そうとも見たいとも思わなかった父の写真です。


父が写真を撮られるのが嫌いだったのか。
それとも離婚する時に父が持って行ったのか。

探しても1枚もないなんて。
離婚時に父が持って行ったなら
その後、籍を入れた愛人だった人に処分されているはずです。

入墨姿の写真。
私は見た記憶があります。
でも未だ見つかりません。
父の左腕の肘下から胸にかけて手彫りで彫られた昇り龍。
父に彫られた入れ墨は鮮やかな青と朱色が美しく、色白の父の肌の上で、まるで生きている様に見えた入れ墨でした。



入れ墨と肝臓病。
他のヤクザ同様に父も後に肝臓を患いました。

体調を壊した父は、その時だけは毎晩、我が家に帰り家族3人で夕食を共にしました。
毎晩、食事には、シジミの味噌汁が出て母は
「パパの為だから」
と、又、シジミ?と思っている私に言って聞かせました。

誰かから聞いてきたのか?
毎日、父の為に作り父も飽きもせず「シジミの味噌汁」を飲んでいました。

後に知りましたが父は肝硬変だったのです。
入れ墨も原因の一つだと思いますが毎晩の様にススキノで度数の高いアルコールを飲む生活も原因だったのでしょう。

母は父が何日も帰らなくても外に愛人がいても
じっと我慢していました。

愛していたから
娘がいるから

理由は何であれ耐えていました。

母が立派だったのは
決して父の悪口を子供の私には聞かせなかった事です。
母の口からは
「パパは頭の良い人」
「パパは字が上手」
「パパは〇〇」
と褒める言葉しか聞いた事はありません。

小さい時から悪口を聞かされていたとしたら
私の父に対する感情は、もっと嫌いな人になっていたと思います。

母は父の事を
「主人」
「夫」
と世間の人には、その言葉を使っていました。

ある時、父のヤクザの子分の妻が我が家に来て、その人の夫の事を
「うちの旦那が〜」
と言った時

母は凄く怒りました。
「ヤクザの妻だから尚更、言葉使いに気をつけなさい」
「堅気の奥さん以上に話し方に気を付けなければ世間から夫が後ろ指を指されるのよ」
「旦那と呼ぶのは品が無い」
と、いつになく強い口調の母でした。

言われた子分の妻は暫く意味が飲み込めなかった様で
いつも穏やかな母に怒られた事に驚いた様子でした。

しばらく沈黙が続き
「姐さんの言う通りです。これからは気を付けます」
と、言われた意味を理解して母に謝っていました。

母はヤクザの女房に間違いはありません。
そして私はヤクザの娘です。
子分の妻もヤクザの女房です。

だからと言って母や私や子分の妻がヤクザでは無いのです。

どんな場所に行っても誰と話しても言葉使いで育ちや今の環境が、わかるものです。
私は、そう思います。

だから私は結婚した時に夫の事を話す時に
「うちの旦那がさぁ〜」
みたいな話し方を一度もしたことはありません。

必ず「夫」「主人」と呼んでいました。

今でも「旦那」と言う表現は好きではありません。
私には品がなく聞こえます。

ヤクザの娘が品の話をするのは可笑しいかもしれませんが、
私がヤクザではありませんから。

私は父や母の躾のお陰で社会に出た時に周りからも認められる社会人になっていきました。

小さい頃は厳しいとしか感じなかった事が社会人になって
父や母の躾が私の社会での立場を良くし、その後の人生で私の社会的立場を確立していきました。

−話は続きます−

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