母から聞いた話では私は凄く安産で産まれたそうです。
当時は田舎でしたから産婆さんに取り上げてもらうのが常の時代でした。
私が産まれて100日のお祝いに写真館で撮った写真です。
きっと当時の写真は貴重だったと思います。カメラやフイルムも高価な物で今の様にスマホでパチリの時代では無かったと思います。


写真の裏には刑務所の検閲の紙が剥がされた跡があります。
刑に服していた父に母が送った私の100日の写真です

産まれた時に私の顔が余りにも不細工で、私の顔をみた親族一同が声を揃えて言ったそうです。
「女の子に産まれて可哀想に」と。
「男の子ならよかったのに」
と。
言われた若い母も、やはり我が子ながら不細工な顔立ちに親戚と同じ様に思ったそうです。
誰に似たのかしらと。
(私が成人を過ぎてから母から聞きました)

それでも100日の記念写真は苗穂刑務所に服役中の父の元に送られました。
不細工な私の写真を見て父は、どう思ったのかは聞いた事がないので、わかりません。

不細工に産まれた私は親戚の不安を知る事も無く(赤ちゃんでしたから)すくすく育ちました。
産まれた時から父がいないのが当たり前の生活でしたから、その後、父が刑期満了で私達が住む三笠市弥生町に戻るまで、時には母と姉妹の様に又、沢山のイトコ達や町に住む同い年の子供達と每日、每日、楽しく遊んでいました。
本当に天真爛漫で明るく、いつも笑っていた幼少期でした。
でも、それは父が戻るまでの4年間だけの事です。
父が戻ってから私は笑わない子供になっていきました。







−話は続きます−