当時、父が属していた会津屋小高一家の親分兼事務所宅は行啓通り(大正天皇が札幌に訪れた時に命名された)から少し奥に引っ込んだ場所にありました。


当時では立派な札幌では珍しい数寄屋造りの日本家屋でした。


私達の出入りは表玄関では無くお勝手口です。

正面に北海道アマチュアボクシング協会と書かれた看板のある客人が入る玄関の横の通りにお勝手口はありました。


お台所は広く奥に畳敷の、こちらも広い和室がありました。


お台所の右手に絨毯が引き締められた居間があり火鉢が置いてありました。

その居間から廊下の向こう側に親分の寝室がありました。

当時では珍しいベッドが置いてありました。


親分宅には私より3歳年上の一人娘がいて良く私と遊んでくれました。


親分宅には家住の若い衆は置いていなかったと思います。


親分は何時も着物を着ていました。妻の(あーやんとよんでいた)あーやんも着物姿でした。

あーやんは何時も髪を結い上げていてピシッとしていました。


親分は若い衆に決して自分の妻を姐さんとは呼ばせませんでした。

やはり一人娘を考えての事だったのだと後から気付きました。


その当時、親分は50代だと思いますが幼い私にはお爺さんに見えました。

時折見せる目はキツイ眼差しの人でした。

遊びに行くと必ず挨拶をしますが子供心に怖さを感じて

「こんにちは」

「お邪魔しています」

を言うのが、やっとでした。


一人娘の〇〇ちゃんには私の様に叩かれたりはせず大切に育てられ、おおらかな性格でした。

子供ながらに綺麗な顔立ちは今でも覚えています。


その親分兼事務所で月に一度

「つきより」

と言う行事が行われました。

子分達が集まり、お台所の奥の和室の中心に親分が座り若頭から始まり位の上の方から座ります。

挨拶は

「おつかれさんです」

から始まります。


金銭の収支から〇〇組の〇〇に破門状が出た絶縁状が出た話や

〇〇が何時には出所する話等。

絶対に覚醒剤には手を出さない掟の話。


若頭が中心に話は進み最後に親分が閉めの挨拶をする。


それから親睦を兼ねて食事会が始まります。


確か毎月10日が「つきより」の日だったと思います。

(漢字で書くと月寄りなのか正式にはわかりません)


「つきより」の日は全員がスーツにネクタイの正装。

普段のダボシャツ姿は許されません。


父の兄弟分は父に年が近く、その子供達も私と同じ様な年齢でした。

何故か?女の子が多かったです。

同じ様な環境で育っていた私たは皆、仲が良く喧嘩をする事も無く楽しく遊んでいました。


「つきより」は

ヤクザの親には月に一度の大切な日。

ヤクザの子供達は月に一度、仲間と会える楽しい日でした。


−話は続きます−