愛 | アレキサンダー アキナイ 

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世の中の仕組みは複雑、ここの仕組みは単純、今は便利な世の中です。


私は沢山の愛を持っています。

それはどういう事なのか・・。

最近、それは知りました。

沢山の愛。

愛は本当に素晴しい。

「愛」とはそこら中に転がっている訳ではありませんが、

沢山あります。

あなたが私が感じるままに存在します。

うまい棒だって確かに愛されています。

発売から現在まで多くの子供達に愛されてきました。

私だって、まだ小さな頃は、10円で買えるうまい棒をカエルのように愛してきました。

ただ、そのように愛することは簡単なのですが、

また、違った愛が沢山余の中にはあるのです。

その人の感性にもよるにですが、特に悲しくも嬉しくもある「愛」

この愛には沢山の人が悩まされて来たんじゃないかと・・・。

そうです、ワンちゃんへの「愛」。

なにせこればっかりは、根本的に感情表現が違うものですから、どうしようもないのかも知れませんが、そうは思いたくないのが人情です。

どれだけ気持ちを伝えても、おしっこを掛けられる。

そんな事はありません。

犬は人の気持ちを分かってくれるのです。

だからワンちゃんは愛を知っています。

愛を持っています。

という事は、愛をいつの間にかなくしていたのは我々人間の方ではないでしょうか。

何事も難しく考えて、世界を変えようとするおろかな人間に気付かせてくれたのは、紛れも無く澄んだ瞳でいつも我々を追ってくれていた、ワンちゃんなのではないのでしょうか。

あの瞳には愛が詰まっています。

きっと、多くの事がシンプルに写っているのでしょうね。

ほんとにただ純粋に。

「愛」があるのでしょう。

なのに私はいつも「愛」を憂いていました。

なんとも情けない。

そこらへんに偽の愛を求め、本当の愛を知らないまま、「愛」だ「愛」だとただ思い込むだけで。

本当の「愛」知らなかった。

だから今は、本当に人を愛するなんて事は分からない。

単純に好きというのと、「愛」ははるかに違う。

肉食動物のようにただ獲物に定めをつけて、それが「愛」だと走り出していく。

それは違う。

違うだろうと、いつも。

ワンちゃんに見習うことは多くありそうです。

個人的な事ですが・・・

マルチーズ欲しい。

欲しいという表現は何か、失礼に当たりはしませんか。

だから、マルチーズを食べたい。

いや、違いますね、この表現だと、ただチーズを食べてワインを楽しむ感覚ですね。

マルチーズを飼うというのもなんかやらしいし・・・

何を言いますか。

それは私自信の気持ちの問題じゃないですかね。

変な風に考えるからダメなんですね。

ただ、シンプルに

マルチーズを愛したい。

それでいいじゃないですか。

そうそう

これで私の犬に対する「愛」の悩みは解消されました。

だけど、ココまではほんの序章ですよ。

なぜなら「愛」は深いんです。

とても深いところまであるもんなんです。

もうすでにお分かりだと思いいますが、沢山の愛がありますね。

その中でも、愛するばかりじゃなく、愛されるという受身の愛があるのです。

これが本当にややこしいんですよ。

受ける「愛」

放たれた「愛」をどう受けるか、それとも受け流すか。

それは受ける人しだい。

受動人です。

能動的なものとは違って、受動的なものには・・・

「パンツにババが付いてますよ」と言われるのとは違い

「あなたを愛しています」と

直球です。

松阪大輔の直球をキャッチャーはどう受け止めるのか。

見れば分かります。

ミットです。

ミットで優しく包み込むように受け止めるのです。

音も優しく。

そう、それが受けと止めるという事なのです。

昔、野球をしていた人なら分かるでしょう。

ボールを素手で受け止めるあの痛み。

「ちょ、ちょっ、まだグローブはめてないって」

「しるかー」

そのときの素手で受けめた勇気が、あるのですから。

勇気があれば百人力です。

ええ、

勇気があれば何でも出来ます。

そう「勇気」です。

では、次回は「勇気」について語りましょうか。

って「愛はどこにいったんですかー?」

はい、こんなもんです。

おっとっと~

それではいけませんよ。

「愛」とは自分で見つけ出して、初めて確信するものですか。

いつも変わりません。

「愛」とはいつも同じ形で

ずっと変わらないままです。

私が生まれる前からずっと

変わらぬままで、今に至るのです。

だから私にもきっと、あなたにもきっと

本当の「愛」が分かる日が訪れるでしょう。

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