二十日鼠と人間 著者:スタインベック 訳者:大門一男 出版社:新潮社 出版年:1953年 評価:☆☆☆☆☆ 完了日:2014714日 ラベル:ヒューマンぐすん


 
 
 

 
 

 

さあ、話しなよ。ジョージ
おいらたちの夢をさ




同じ新潮社から出版されているのに、訳者が違う本が二種類あった。大門一男版と大浦暁生版。今回は大門版を選んだ。同じ作品でも、訳者によって訳の仕方が異なるのだなと、図書館で読み比べてみてそれに気づいた。

 

小男のジョージと大男のレニー。二人は性格も対照的。レニーはうすのろで物覚えが悪い。はっきりとは示されてはいないが、たぶん脳に何らかの障害を負っているのだろう。ジョージの方はいつか自分の農場を持ちたいと夢に持っていた。

 

そんな二人は南カルフォルニアの農場を転々とする貧しい労働者。

 

大門氏の訳は情景描写や説明文(セリフ以外)での文章に対し句点が多い。やや煩わしい。まぁ、セリフの部分は生き生きとした感じが伝わってくるからいいか。

 

レニーはウサギが大好き。ウサギのことなら絶対忘れない自信がある。レニーがウサギの話を持ち出すたびにジョージは怒る。決まってこう言う。

「ウサギなんぞ、くそくらえだ!」

・・・お前はウサギに恨みでもあるのか、ジョージよ。

 

「こいつさえいなけりゃ、おれはもっと上手くやれるのに」

そうぼやきつつも、決してレニーを見捨てようとはしないジョージ。それが彼の優しいところ。自分だったら、とっとと置いてきぼりにするがな(ひどい)。

 

ところでジョージとレニーはどういう関係なんだ?親戚どうしでもないのに、なぜジョージはレニーがヘマをするたびに庇うのか。新しく就いた農場先の仲間たちも不思議がっている。通常、農場は一人で渡り歩くものなのに、なんでお前たちはコンビを組んでんだ?って。

一人じゃやっていけない者も中にはいる。コンビだからこそ、お互いの穴を埋め合いながら世の中を生きていけるのだ。お笑いのコンビだろうが、恋人や夫婦といったパートナーだろうが、要は同じこと。いつだって、このクソみたいな世界をサバイブしていくには、一人では心細くキツイのだ。

 

ジョージはレニーに夢を語ってやることで自信を得る。レニーは己の行動の不始末をジョージに庇ってもらう。そうやって補完関係にあったから二人はこれまでの辛い労働でも耐えてこられたのだ。

 

時代が時代なので、人権を無視した現実が普通にある。

“黒ん坊”と呼ばれて、みんなから差別されている黒人馬ていのクルックス。一人だけ寝所を隔離されているのだが、そのクルックスのもとにレニーがふらりとやってくる。クルックスとレニーの会話がまったく嚙み合ってねぇ!!

 

クルックスは言う。農場を持つことを夢に見るヤツらをこれまでたくさん見てきたが、その実、誰一人としてその夢を実現したヤツはいない。どうせみんな、手に入れた金はすぐさま酒や女に消えちまうんだぜ。ハハハハハ・・・・とな。

 

この農場に来たばかりの、しかもあまり賢くないレニーにいきなり何言ってやがんだ、コイツ。訝しむな。

 

農場主の息子・カーリー。そして彼の奥さん。この女、夫を持つ身でありながら、男どもに色目を使っていると噂されている。後々、この女が面倒事を起こすだろうな。いや、起こすに決まっている。そんな臭いがプンプンと臭ってきやすぜ。

 

女は単なる農場の妻の座に収まったのが気に食わない様子。あったかもしれない他の未来にばかり想いを馳せている。銀幕スターになれたかもしれない。興行ショウの花形になれたかもしれない。己の美貌を鼻にかけ、そんなことばかりを自慢してくるのだ。でも、こういう人間はたとえ他の道を選んでいたとしても、結局不平不満をこぼしているだろう。きっちり100%満足できる生き方なんて、できやしないのだから。

 

展開した第五章。結末の第六章。

事態を収束させるために取った彼の行動。物語冒頭のセリフをそっくり諳んじながらの彼の心中は如何ばかりか。それを思うとすごくやるせなくなる。悲しくなる。この辺りの手法は実に見事だ。鳥肌がたつ。

 

最終章。これから彼がなそうとしていることは多分に緊張感をはらんでおり、我々読者は固唾を飲んで見守ることしかできない。人物の心理描写は一切排除され、行動ひとつひとつが克明である。そこから読者は彼の心中を痛いほど考えてしまう。彼の一挙手一投足に大きく目を見張り、息をするのも忘れてしまう。

 

弱い者は生きている価値がないのだろうか。

 

無知であること、無垢であること。ただそれだけで罪だと言い、罰を与えることができるのだろうか。

 

タイトルの『二十日鼠と人間』。ハツカネズミがたどった運命も人間がたどった運命もそっくり重なる。ジョージがネズミの死骸を投げ捨てた場所も彼をああした場所も同じだ。リンクしている。なんという符合だろうか!

著者はよく考えて作りこんでいるということがよく分かる。

 

本書は1937年にアメリカで出版された。翻訳されたのも1953年と大昔のことだけど、いま読んでも十分に通じる古臭さを感じさせない作品だ。

 

演出、構成、その手腕の見事さに舌を巻く。逆立ちしても敵いそうにない。

 

その時、彼はどんな顔をしていただろうか。いつもと同じ顔か、心を失くしたような顔か、苦渋の顔か。それとも・・・・、泣きそうな顔だったか。