【クッキーシーンとは】
About This Site - cookiescene.jp

80年代前半に手書きZINE編集を経験、その頃から音楽ライターとしても活動してきた伊藤英嗣が1997年に自費出版で始めた雑誌がクッキーシーン(Cookie Scene)。2009年12月をもって、いったん雑誌としての発行を休止し、ふたたび(2000年代初頭のように)ウェブ展開を積極的におこなうべく、まずはこのサイトを2010年5月にスタートさせました。

【プレ・オープン】

2010年4月30日(金)25時もしくは5月1日(土)1時、プレ・オープンしました! そして公開後におこなっていた微調整作業も、先ほどようやく一段落しました...。

現在「バナーがあるけれど、まだコンテンツがない」部分などは、徐々にアップしていきます(なんか、たくさんあって、すみません...)。レヴューも「載せたいけれど、プレ・オープンに間に合わない」というものがけっこうありますので、それも徐々に...(ちなみに、カヴァー・アートのみしか入っていなかったMGMTのレヴュー本文は、先ほどアップしました...)。

基本的に、更新をおこなうのは平日のみとします(場合によっては、休日に更新してしまうこともあるとは思いますが)。5月6日(木)以降、更新を活発化させ、5月12日(水)頃には「プレ・オープン」の文字をロゴからはずす予定です。

*すみません、延びてます...。【5月12日(水)追記】


まだプレ・オープンのようですが、CDレヴューなどは
読み応えのある内容で、かなり参考になります。
一度アクセスしてみて下さい!

cookiescene.jp

下記のレビューは勝手にコピペした記事です
既に、ファンの方は購入していると思いますが
こんな感じでUPされてます。
(動画は有りません)




$縮まらない『何か』を僕らは知っている

相対性理論『シンクロニシティーン』

 5曲入り約15分の前々作『シフォン主義』、9曲入り約33分の前作『ハイファイ新書』につづいて、今回は11曲入り約40分。こういった言い方自体古いような気もするが、「初のフル・アルバム」みたいな表現も可能だろう。実際それだけの充実作となった。

 ローファイなバンド・サウンドの『シフォン主義』が話題になりはじめたころ初めて見たライヴで、リズム隊の生みだすしなやかなリズムに感銘を受けた。それゆえ『ハイファイ新書』における「歪んだAOR」的サウンドも自然な成長に思えた。そして今回、ある種の違和感やスポンティニアス性を内包したままのソフィスティケーションはさらに進み、最も魅力的だったときの歌謡曲がこの10年代にまだ(普通に)棲息していたかのような錯覚さえ覚える。

 やくしまるえつこのヴォーカルも、ずいぶん印象が変わった。まだ子どもっぽさを感じさせた1作目の衝撃から、よりアニメ度(そんな言葉あるのか?)の強まった2作目をへて、これまでになく人間っぽい。エキセントリック「ではない」、通常の会話に近い部分の発声方法が、新鮮な衝撃。以前とは明らかにレベルが異なる。一抹の「二次元性」もしくは、ある種のアンドロイドっぽさとそれの併存ぶりは、アリソン・スタットン(ヤング・マーブル・ジャイアンツ~ウィークエンド。ぼくの最も好きな女性ヴォーカリスト)さえ想起させる。

 数ヶ月前に、ツイッターを始めて以来、もともと曖昧な部分もあると感じていた「機械と人間の境界線」が、ぼくの中で、またさらにぼやけてきた。この新しいコミュニケーション・ツールは、普段の生活の中にも無数に存在しているシンクロニシティを顕在化させる。そういった状況に、このアルバム・タイトルは(そして、それが象徴する内容も)よく似合う。

 資本主義ではなく『シフォン主義』を唱える相対性理論というバンドのファースト・(ミニ・)アルバム冒頭曲は(ウルトラ警備隊ではなく)「スマトラ警備隊」。長めのイントロのあと「やってきた恐竜、街破壊」とか、女子が歌いだす。おそろしく今っぽい、そしてSF的な体験だった。未来が見てみたい、と思った。そこで抱いた期待を裏切らないどころか、さらなる驚きが、この新作にはある。

 前作も前々作も、実はデータのみで所有していた。『ハイファイ新書』を聴いて、意外に早く限界が来るかも? などと醒めた見方になってしまった部分もあり(すみません...)今回どうしようか迷った。でも、このアートワークを事前に見て、思わずCDを買ってしまった(個人的な話で申し訳ないのだが、これ、うんこ次郎先生のマンガにしんくろにしてぃーん! みたいな...。ちなみに、うんこ次郎先生とは、初期クッキーシーンに連載してくれていた人です)。そうしたら、あまりに良くて、つい前2作もCDで買い直してしまった。また、もう少し未来をのぞいてみたい、そんな気分で。(伊藤英嗣)





$縮まらない『何か』を僕らは知っている

Perfume『不自然なガール/ナチュラルに恋して』

 90年代に見せた小室哲哉のプロデュース作品の持っていた躁的なムードと市場での受容のされ方は、経済学的に言うと「失われた10年」という記号と共振するところがあって面白く、それは日本のガラパゴス化が既にその頃から始まっていた証左だと思う。金太郎飴のようなエレクトロ・サウンド、15秒のサビに全てを掛けた構成、大きい文字の羅列の歌詞、あらゆる要素が「自意識」のソトで鳴り響いてしまうという皮肉を内包していたが故に、その後の小室哲哉の衰微と比して、ミスチルが「自意識」のウチで勝ち続けたという事は象徴的かもしれない。

 ポスト・モダンからロスト・モダン、そして、パスト・モダンへ。

 過去を振り返る為に「近代」があるとした時期に、中田ヤスタカはブレイクしたと定義付けるなら、大胆な80年代的なニュー・オーダーに代表される薄いサウンド・レイヤー、ダフト・パンク的なコンプがかかった意匠、露骨なハウスの元ネタへのオマージュを「メタ」に再構築して、一気に時代の寵児になり、街中にこれの過剰なまでの情報量の多いサウンドが溢れさせる事にした時代の要請とは僕は逆に漸く、日本は「戦時中」だという事を無意識裡にでもインストールさせたのか、と思った。

 それは例えば、『地獄の黙示録』の船で「王国」を目指すべく、川を昇る時にラジオから流れるローリング・ストーンズの「サティスファクション」と、プライマル・スクリームが00年と共にケミカル・ブラザーズと組んだアシッドな「Swastica Eyes」のPVに出てくる次々と衣装(意匠)を変え、挑発的な女性の持つ蠱惑性と僕の中では繋がってくる。そこを汲み取り、08年から急激にポップ・イコンとして地表化したPERFUMEの三人の持つ完全なパフォーマンスと中田ヤスタカの嬉しい誤算は演繹出来るだろう。

 免疫学的に女性は「存在」として認知出来るが、「男性」は現象でしかない。だからこそ、女性はリアルを生きる。男性はロマンを生きる。中田ヤスタカのロマンの中でリアルに三人の女の子がリアルに踊る、そこにセルジュ・ゲンズブールとフランス・ギャルの関係性を見た僕のような人間が居てもおかしくない気がする。

 そして、10年代に入り、中田ヤスタカのロマンがついに女の子のリアルに回収されてしまったのが、この「不自然なガール/ナチュラルに恋して」の二曲といえる。「不自然なガール」はMEGの「甘い贅沢」や彼女たちの「love the world」辺りを彷彿させるアッパー・チューン、「ナチュラルに恋して」は「I still love U」系の80年代のブラコン風。ただ、そこで出てくるマーケティングされた「女の子像」は素直な乙女心の揺れ動き、「婚活」というターム以降の感性論で語る事が出来るというのが、とてもシミュラークル的で興味深い。

「いないのに、いる」女の子、「いるのに、いない」男の子、その深い溝を埋める術はあるのかどうか僕には分からない。でも、愈よPERFUMEという大きな「自我」が暴走し始めた作品としてこれは分水嶺になるのではないだろうか。(松浦達)