$縮まらない『何か』を僕らは知っている-七尾旅人

世界最小の怪物「虚無~ん」を巡って繰り広げられる戦い、そこにエンゼルの声は響くのか?!


決定的に、救われない感じがしてきた(笑)。アルバムも褒めてもらいました、握手もしました……いろいろ友達もできたし。でも、なんか……そのことによって、「あれ? 僕チンもがらんどうだったんだ。みんなと同じだね」って気づいた

このどこまでも続く「虚無の国」に、あの不細工な天使は舞い降りるのか? この何を満たしても、結局は何ひとつ変わらない「がらんどうの心」に歌は届くのか?
すべてが既視感でいっぱいの「リアルなだけの時代」に、新たな「五感」の到来を願いながら、驚きと享楽と恋のアマルガムを鳴らす「虚しいファンタジー」、その救済なき光景



 これは、時代の「虚無」という、いつもアナタの側に優しげに寄りそう迷惑な悪魔を巡る会話である。七尾旅人風に、そいつを「虚無~ん」と呼んでもいいかもしれない。それはおそらくアナタがどうにもすぐれない原因であり、七尾旅人や、レディオヘッドやドラゴンアッシュやリガージテーターやスーパーカーが音楽に向かう根拠であったりもする。そして、その「虚無~ん」に対して、音楽は、表現は、何を成しうるのか?――今回、我々はそれだけについて語った。
 七尾旅人の通算4枚目のマキシ・シングル「ナイト・オブ・ザ・ヘディング・ヘッド」、これは言葉も、物語も、音の政治性も、どこまでも生々しい身体の震えも、すべてを動員させ、「虚無~ん」のド真ん中で、ぎこちない下駄履きのダンスを踊るための音楽だ。そう、1曲目“エンゼル・コール”の、不思議な浮遊感を持ったシークエンスがもたらす快感はどうだ? ありえない遅さのbpmのキックの4つ打ちがもたらす空間の揺らぎはどうだ? 「カーティ...。」という天使語がもたらすイマジネーションの拡がりはどうだ? リアルと驚きの真ん中で、退屈と既視感と諦めを引き連れた「虚無~ん」から少しだけ遠ざかろうと、無益な想像力というダンスが踊っている。そんな闘いのドキュメント。勿論、部屋にやってきた天使にクッションを投げ付けた少年の「天使だ...。」という、驚きの呟きはすぐに雑踏の音に掻き消され、色褪せるだろう。暗闇の中、轟音が鳴り響く“震動の国”で芽生えたはずの恋は、すぐに面倒臭い「約束」に形を変えるだろう。そして、すべての音が鳴り止んだ瞬間に、また、あのお馴染みの「虚無~ん」が君に向かって、ニッコリと佇んでいるに違いない。
 今回のインタヴューにおける七尾旅人は、ほとんどただの甘えた子供だ。ただ、ありえないようなことばかり願っている。ドラゴンアッシュのような使命と目的を持った、しっかりした大人ではない。もし彼がうちの編集部にいたら、その甘えた態度にすかさず殴り倒しているだろう。だが、彼の「面倒臭え、添い寝だけしていたい」という言葉を否定する言葉を、僕は持ち得ないのだ。何故なら、彼が語る「別にどーでもいいんだよ」という感覚こそが、我々の「虚無~ん」の正体だからだ。いくら革命を歌っても、その行く先を我々はもう知ってしまった。だからこそ、「男の子がいて、でも、それだけじゃダメなんだ。天使がいなきゃダメなんだ」――この言葉の意味がアナタに伝わればいいと思う。僕がこの記事に望むのは、それだけだ。 (SNOOZER#018 田中宗一郎)


$縮まらない『何か』を僕らは知っている-ナイト・オブ・ザ・ヘディング・ヘッド
ナイト・オブ・ザ・ヘディング・ヘッド/七尾旅人 (2000)

1. エンゼル・コール
2. 震動の国
3. 雨傘行進曲


$縮まらない『何か』を僕らは知っている


 この曲は、例えば音楽を聴いた時のパラレル・ワールドの物語なんだ。鈍く強いバスドラが空を飛ぶ僕の高なる胸の鼓動に、柔らかく鈍いシーケンスが天使の翼が真っ白い夜の風を切る音に聴こえた時、つまり音と歌詞がリンクして物語を奏でた時に「魔法ってあるんだよ」と訴えかけてきた。別に頭がおかしくなった訳じゃない。デザインされた音が、音としてではなく、音楽として鳴る時に。その音楽に心が動かされる時。そこに不思議な力を感じないかい? 例えば、そういうこと。そんな時に天使が「カーティ」って……。 (村 圭史)

 ぼくはこのM1を聴く時間、目を瞑る。21年の都市生活で鈍った聴覚が、少し鋭敏になる。耳がピン、とする。3分34秒、Aメロに戻ってくる恍惚の瞬間に、閉じた目を開く。あ、いい。本人が「敢えて聴かなかった」、リマ―ルの唄う“ネヴァ―エンディング・ストーリーのテーマ”に、実はメロディも構成もよく似ている。つまりジョルジオ・モロダーなんだ。この抑えたテンポを「追憶を遡っていくような」と書いた気がするんだけど、改めて、なんか、想い出が暖かい。だってこの飛翔歌、この涙、真っ白い夢でしょう? (䑓 次郎)

 あっさりとネクスト・レベルへ。きめの細かさを徹底して追求した音色はどれをとっても絶品。どこか懐かしさを感じさせながらも、どこにもなかったエレポップ2000なM1を始めとして、全体に何重もの薄くて柔らかい膜に覆われたような統一された質感。ぼんやりとした夢のような。疾走感に満ちたM2などは、以前ならばもっとざらついた音に仕上がっていただろう。初期のカオティックさは消え失せたが、表現が希薄になった感じは全くしない。「ソフィスティケイト」という言葉が、肯定的に用いられるべき希有な存在。 (斉藤耕治)

 ハロー、三つの物語。そこはいままで通り、夜だったり雨降りだったりで、空は暗いはずなのに、真っ白い世界なの、なんで? 飛ぶ、翔る、誰かに話さなくちゃと思う(しかも、全部)、踊る、抱きしめたい(しかも、ちょー)、キスしたい(しかも、いきなり)、おまけに傘まで振り回す!――かったるくって息すんのもやっとだったのに、気づけばしたいことばっか。神様の失敗作の汚くてグズの天使と出会ってしまい、空まで飛んじゃったその声は優しさを増し、ずっとずっとあったかく聴こえる。私も天使に会えた気がする。 (今村真紀)

 多くの人にとって必殺チューンとなるだろうM1。これまで、どこか突出した文学作品として受け取っていた彼の世界観が、ここで完全に同時代の一部になった、ような。制作陣によるアイコンタクトみたいな最良の仕事を差し引いても、日本における「アシッド・ハウスがなかった」感が歴史改訂されていくような感慨まで……というのは大げさ? でも、ギターをアンプリファイしたぐらいで満足出来る自意識なんて時代錯誤の幸福さに用はないから、この至福の四つ打ちが響く空っぽの「震動の国」へ、僕はまた足を運ぶ。 (加藤亮太)

 感触としての音。耳触りではなく、手の平の上に本当の何かが舞い降りてくる。飛行機に乗ったときに見た真っ白すぎるくらい晴れた空と、永遠に続いていく雲のような、不思議な光景。手には届かないけど、ホントにあるもの。そんな声と細かな音と信号の共鳴が“エンゼル・コール”には、響く。「聴いたことないよ、こんなの!!」――七尾旅人を聴くたびにそんな風に思ってたけど、今回はどの曲もどこか懐かしい。まだ幼かった頃に、体の中に流れていたパルスがここにはある。しかし、出す毎に懐の広さを見せ過ぎ、七尾くん。 (唐沢真佐子)