$縮まらない『何か』を僕らは知っている-downy

音楽という神秘を、意志と自由として鳴らす、無為の変革者

 3年程前、ナンバーガールやモーサム・トーンベンダーらに続き、福岡のシーンから現れたダウニーのサウンドは、モグワイやゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーとシンクロしているかのように思えた。編成はギター2本に、ベース、ドラム、映像の5人(今作の制作にとりかかる前に、ドラムと映像がメンバー・チェンジした)。映像を担当している人間がメンバーとしてクレジットされていることからもわかるように、彼らのライブでは映像が流れ、音楽と同等に力が入れられている。ダウニーはおそらく、何か既存のものの一部にはなりたくない、という思いが強いのだろう。例えば彼らは今作を含め、3枚のアルバムをリリースしてきたが、その全てにタイトルがない。これは自分達のやっていることを先入観や「ミュージシャン個人にスポットが当たること」等、色々なものから守ろうとしているのだろう。
 そして、この3枚目のアルバムは、彼らの最高傑作となった。というか、ようやくダウニーは自分達が表そうとしていたものにリーチすることが出来たのかもしれない。というのも、今作を聴いた上で前作を聴いてみると、やや感情が垂れ流しになっている印象を僕は持ってしまったからだ。今作は、音楽的には何よりも、リズム・アンサンブルの充実が大きい。サウンドはよりクリアになり、ギター等の上物に関しても無駄がなくなり、曲の中にスペースがうまれている。この抑制された世界は、レディオヘッドの『キッドA』を彷彿させる。これはダンス・ミュージックでもチルアウト・ミュージックでもない。だが、それは、おそらく自分達がダンス・カルチャーなどどこかのシーンに属しているという思いがない、彼らのような音楽性を持ったバンドにとっては、当然なのかもしれない。また、中原中也を雛形としたと思しき歌詞は、現代の口語にはないリズム感を持ち、青木ロビンのささやくような「七尾旅人以降」を思わせる唱法と相まって、面白い音響効果を得ている。音楽は、アートは、まだやり尽くされていない――ダウニーは僕に、その当たり前の事実を改めて実感させてくれる。(村 圭史)


$縮まらない『何か』を僕らは知っている-無題3
無題(3)/downy (2003)

1. 鉄の風景
2. アナーキーダンス
3. 抒情譜
4. 形而上学(メタフィジック)
5. 暁にて…
6. 「  」
7. 苒
8. 月
9. 酩酊フリーク


 彼らの3枚目のアルバムとなる『(無題3rd)』を、どんな作品だと説明すればいいのだろう。ポストロック?そんな言葉は、もはや2003年においては無効だろう。音響派?今の彼らにとっては、そんな言葉は前提でしかない。変拍子のリズムは、前作『(無題2nd)』での攻撃的で、複雑なシンコペーシヨンと比べると、とても自然に感じられる。フガジ的なハードコアとシガー・ロスにも似た美しい共鳴音が同居した、静けさと高揚感が入り交じる不思議なアルバムだ。
 そして、やはり書いておかねばならないのは、今作の歌詞の美しさだろう。彼の綴る言葉は、口語とはまったく違った、文語的な響きと世界観を持っている。この作品の詩を読んでいると、私は、十代の頃に夢中だった寺山修司の世界を思い出す。とても残酷で悲しい現実と、淫蘼な欲望、ロマンティックな幻想が交差する、「田園に死す」や「書を捨てよ街へ出よう」のような情景が色鮮やかに浮かび上がってくる。ところが、そんな言葉は、声に出され、歌となった瞬間に、音へと解体されてゆく。言葉が持つ“意味”の束縛を解放してゆくような、青木ロビンのヴォーカルがとても素敵だ。視覚と聴覚、そして内的世界まで、ある瞬間一本に結び付けられる――このアルバムは、そんな体験をさせてくれる。しかも、ライブでは、ここに映像も加わるというのだから。
 少しばかりゴーマンな言い方をすると、「そろそろダウニーの音楽が、もっと多くの人に理解されてもいい時期なんじゃないか?」とさえ思う。レディオヘッドを聴いてて、ブルーハーブも聴いてて、オウテカも聴いてて、モーサム・トーンベンダーも、モグワイも聴いてるのに、ダウニーだけ聴いてない――というのはちょっと可笑しな話じゃないか。(唐沢真佐子)

$縮まらない『何か』を僕らは知っている-青木ロビン