昼間、
フェイスブックに投稿した文。
今日はなかなか、刺激が強い日。
昨日のブログ、
Megさんとぢんさんにリブログしてもらって
なんだかえらいことになっている。
今朝、夫との会話で
夫にとっては当たり前だけど
私にはまったくなかった価値観を知り
目から鱗がボコボコ落ちて
ああ〜、この話、
どーやってまとめようかな
なんて考えている最中、
小林麻央さんの訃報を目にした。
母を癌で亡くしているので
母がいつも、どんなことを感じ
どんなことを考えていたのか
母の言葉のように思いながら
真央さんのブログを拝読していた。
真央さんのお子さんも
うちの息子と同じ年齢なので
読んでいると、とても微笑ましく
暖かい気持ちになった。
真央さんやご家族が
強くあろうとする言葉に
励まされる時もあれば
苦しくなる時もあった。
私が母を亡くした後、後悔したことのひとつに
母の弱音を受け入れられなかったことがある。
母が亡くなる少し前、
高熱がずっと続いていた時に
「最近よく、田舎の風景を思い出す」
「病室の窓一面に、人の顔が見える」
などと話していたことがあって
私は怖くて、話をそらした。
母がそのまま、あっちの世界に行ってしまいそうで、聞いていられなかったからだ。
母は、体の痛みや苦しさ
死と向き合うことの恐怖や悲しみ
弱音を誰かに話せたんだろうか
母は常に強くあろうとする人だったから
自分の中で、なんとかしようとしてきたんじゃないか。
そう思うとたまらなくて、悲しかった。
今にして思えば
私たち家族も、母を亡くす恐怖と闘っており
私は出産を控えた怖さも重なり
皆それぞれに、精一杯やったんだ、
と思えるのだけど
そう思えるまでに、4年の歳月が必要だった。
真央さんと
真央さんのご家族の気持ちが
母や私と一緒とは限らない。
私が勝手に思い出すこと。
今日はこれから、息子のスイミングの付き添い。
夜は金曜恒例の唐揚げ。
普通の1日を過ごす。
食べて飲んで
笑って驚いて
悲しんで怒って
嫉妬して拗ねて
そういう、普通の1日。
少し先の予定にワクワクしたりできる幸せ。
しみじみと浸りながら、いってきまーす。
真央さんが亡くなったことが
とても悲しくて
昼間は、とてもグラグラしていて
書いた文章。
そして夕方
真央さんが、イギリスの公共放送BBCに
寄せた手記を拝読した。
先日、見ていたドラマで
どんな風に死んだか、ではなく
どんな風に生きたか
亡くなった人にとっては
そっちの方が大事じゃないかな。
みたいなセリフがあって
あぁ、そうだな。って思ったの。
闘病を支えたからこそ
そばにいたからこそ
病気になってからの母のことばかり思い出してしまうけど、
母の人生は、それだけじゃないのだ。
あぶない。
母を「病気で死んじゃった人」にし続けていたのは私だった。
などと思っていたところに
ぢんさんのブログを読んだ。
うん。
ぢんさんの境地には程遠いけど
私もこの頃、自分の
冷たさや
自分本位なところ
嫉妬
などなどに向き合ってきて
あぁー私、
ずっと、自分の世界を
京都のお寺の綺麗な庭みたいに
綺麗な石だけにしたかったんだなぁって
汚い石を、必死にどかし続けてたんだって。
思ったのですよ。
自分の嫌なところを排除しまくって
きれいな私でいたいと思っていた。
今日ね
息子が寝る前に
おもちゃを片付けさせていたら
息子が、おもちゃをゴミ箱に入れようとしてたの。
私、びっくりして
おもちゃを片付けさせられてるのが不満で
ふてくされてやってるのかと思って
「あんた、何やってんの!?」
って怒鳴ったのね。
息子は純粋に
ぼんやりして間違えただけだったみたいで
私に怒鳴られてびっくりして
泣き出してしまった。
とっさに、
ああ、ただ間違えただけだったんだ。
私が勝手に決めつけて怒鳴ってしまったんだ。
と思って、
いっぱいいっぱい謝った。
息子にいっぱい話しかけられて
鬱陶しく思ってしまう私も、
息子の間違いを悪行と決めつけて
怒鳴ってしまう私も
息子に対して
誠実でありたいと思っている私も
どれも本当の私なのだ。
どんな私も、ただ、ある。
どんな出来事も、ただ、ある。
身近なところから、ひとつひとつ
「ある」ことに気付いていく。
「ある」に気付くウィークだな、今週。

