超略、近現代服飾史 (”新しさ”を創造してきたデザイナー達) | 伝統技術を現代のライフスタイルに合わせて発信するプロジェクト  ”ARLNATA” アルルナータ ディレクターの独り言

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約11年に渡るヨーロッパの様々なステージのラグジュアリーブランドを経て日本に帰国し、衰退産業とも言われている日本の伝統技術を今の形で発信するためのプロジェクト”ARLNATA”アルルナータを主催しているディレクターの独り言です。
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 “新しさ”を求めている訳ではないファッションに“新しさ”を提案してきたデザイナー達がいます。“新しさ”を想像するという事は当然のながら簡単な事ではありません。ファッションはその上に美しくなければなりません。ですから、その価値ある“新しさ”を世に産み出した創造者の名前は、世に広まり、歴史に刻まれ、ファッションに特に明るくない人でも聞いた事があったり、知らず知らずのうちにその流れを汲んだものを持っていたりするのです。


 20世紀の初頭、上流階級の女性たちのファッションは、
豊満なバストの強調、コルセットによって締め付けられたウエスト、詰め物されたヒップといったように装飾過剰で自分で装着することが困難なものでした。それはこの時代の女性に対する美意識がこうであり、そしてそれは女性が富のある男性に隷属するということを良しとし、社会進出を阻むものでもありました。この女性達をコルセットから解放し、社会に進出し能力を発揮するという契機を作る大きな役割を果たした一人がココ・シャネル(Coco Chanel)なのです。その当時女性がズボンを履く事が有り得ないと思われていた中、1916年にパンツルックを発表し、その後世の中に広まる契機を作りました。女性がよりシンプルな、活動的な服装をすることで、様々な場所で活躍するチャンスを与えた訳です。また同じく1916年に、元々男性下着に使われていた伸縮素材のジャージを表に使用しドレスを作成しました。これは動き易さを重視したデザインで、このことから『女性にコルセットを外させたデザイナー』と言われるようになります。後の1926年には、その当時喪服の色、もしくは汚れが目立たないための労働者層の女性の服の色と思われ避けられていた“黒”を使用した“リトルブラックドレス”を制作。時代の慣習を次々とくつがえします。その他、20年代には<マドレーヌ・ヴィオネ(Madeleine Vionnet)が今では常識のバイアスカット(生地の45度斜め方向を重力方向に置いて布を裁つ方法)を利用したドレスを提案しました。

 その後第二次世界大戦を経て、戦後その陰鬱な雰囲気からの脱出を図ろうとし、女性達が旧時代のウエストを絞り、ボリュームのあるスカートなど華やかなスタイルを求めるようになります。47年にクリスチャン・ディオール(Christian Dior)の細く絞ったウェストとゆったりしたフレアスカートを特徴とする“ニュールック”がはやり、クリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga) やそのアシスタントでもあったユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)などが構築的な女性のシルエットを提案しました。そんな中56年にシャネルが それらの流れに対する反動からツイードの襟なしジャケットとスカートを組み合わせた時代に左右されない時代を超えた“シャネルスーツ”を提案します。

 戦後復興の見えたきた60年代に大量消費時代がスタートし、それと同時にファッションの消費も上流階級から大衆へと移って行きます、プレタポルテ(prêt-à-porter:高級既製服)の始まりです。この流れの中で、特にアメリカの社会進出する女性達の中で、ディオールのニュールックとは違いシャネルの手がける服の働き易さが評判となり圧倒的な支持を得ました。またディオールの死後その後継者となっていたイヴ・サンローラン(Yves Saint-Laurent)が62年自身のレーベルを設立し、彼の提案したパンツルックは大量消費時代の流れに乗って、女性がズボンを履くスタイルを普及させました

 そして73年にパリコレクションデビューをした三宅一生(Issey Miyake)は西洋”でも“東洋”でもない衣服の本質と機能を問う“世界服”を創造追究し、後の93年にコンパクトに収納できて着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットする“プリーツ・プリーズ(PLEATS PLEASE)”を発表します。その他にも、新素材の可能性、新しい技術の可能性を常に追求してきていました。そして81年に山本耀司(Yohji Yamamoto)川久保玲(Comme des Garçons)両者がパリコレクションに初参加し、黒を基調としたジェンダーレスなスタイル、裁ちっぱなしのほつれた処理、その当時の西洋の美意識とはかけ離れたボリューム感など当時のヨーロッパのファッション業界では賛否両論が巻き起こり、“ヒロシマシック”などと揶揄され、特に82年Comme des Garçonsの黒服、穴空きニットは”黒の衝撃“と称されました。

 その他伸縮素材を体のラインを強調するために利用することで80年代のボディコンブームに火をつけたアズディンアライア(Azzedine Alaïa)、88年にデビューして以来、アンチモードを掲げ、それまでのきらびやかで優雅な雰囲気を持つ「モード」とは対極のコレクションを独特の世界観で見せたマルタン・マルジェラ(Maison Martin Margiela)、従来のファッションという枠にはとどまらず、アート、建築、デザイン、哲学、人類学、科学といった複数の領域を横断して展開するフセイン・チャラヤン(Hussein Chalayan),独特のくすんだ色合いや、古着めいた加工がされたレザーとニットの組み合わせ、そして製造技術の向上によって可能になった極薄ジャージ素材の流行をつくった リック・オウエンス(Rick Owens)、洋服にまつわる全ての技術の可能性を徹底的に追究し、新しい服を創り出すキャロル・クリスチャン・ポエル(Carol Christian Poell)などなど、細かい要素を挙げて行くとその他たくさんのデザイナーがいますが、少なくともここに挙げたデザイナー達は後世の人々に影響を与え、そして町中に溢れている洋服にも何らかのつながりがあることは疑いの余地がありません。


 現在のファッションは、これらの“新しさ”を産み出して来たデザイナー達のお陰で、もうアイデアが飽和状態だと言われています。新しいデザイナーが出てくる事は難しいだろうと、諦めにも近い言葉も見られます。ただ、英雄は民衆が困窮している中で現れるから英雄であり、ファッション界もこんな中だからこそ、誰か“新しい英雄”を待ち望んでいるのでいるのかもしれません。そんな英雄の芽が日本から現れる日が来るよう、その土を皆で耕しながら待つとしましょう。



参照:VIデザイン=目的の創造性 (美とは、何か?、ココ・シャネルのデザイン革命)


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