終末の唄_036
マスクの男は目だけを動かして、診察室の様子をゆっくりと見回した。
それは、何もかもが白い部屋だった。男はその純白の中にあって、自分だけが唯一の黒い一点のシミのように思えた。
「どうしたの? うまく説明できない? それとも、自分でもどう言っていいのか、よくわからないのかしら?」
少し開いている窓から、春待ちのまだ冷たい風が吹き込み、ベージュのカーテンを揺らした。
チェン先生はスツールから立ち上がり、静かに窓を閉めた。
「とりあえず、その大きなマスクも、取ってくれないかしら? 声が聞き取りにくいわ」
けれど男は、マスクだけは取ろうとはしなかった。
「だめなの? そう。まあ、いいわ」チェン先生はスツールのところに戻り、再びそれに座って、言った。
「それじゃあ、もう一度訊くわよ? あなたの症状を、説明できるかしら?」
マスクの男はさっき質問されたときと同じように、黙り込んでいた。
そして、からからに乾いた喉を少しでも癒そうと、唾をごくりと飲み込んだ。
「さて、よわったわねえ。
これじゃあ、カルテも書けないわ」
チェン先生は音もなく足を組みかえて、言った。けれどその口調には、それほど差し迫った感じはなかった。
男はおもむろに頭を指差した。
「シャンプーをしろと言うのね? ええ、もちろん。それがわたしの仕事ですからね。
だけど、あなたがなぜここにきたのか、それを知っているほうが、わたしの治療は効果があるのよ?
ここは、だれもが簡単にこれる場所ではないわ。あなたもよくわかっているとは思うけれど。
だから、ここにくるひとたちはみんな、それなりに深刻な悩みを持っているわ。あなたもきっとそうなんだと、わたしは思うの」
マスクの男は、チェン先生を見つめたまま、また黙り込んだ。
チェン先生は真っ白な白衣の下に、胸元が開いたクリーム色の柔らかそうなシルクのブラウスを着ていた。そのブラウスの中では、白いきめ細かな肌はより透き通っていき、段々と透明になっているのではないかと思われた。
ふたりが沈黙している間、どれくらいの時間が過ぎたのだろう?
この白い部屋の中では、何もかもがとても静か過ぎて、時間は完全に止まってしまっているかのように男には思えた。
チェン先生がどれだけ待っても、いくら促してみても、マスクの男はそれから先はひとことも話さなかった。
「いいわ」
チェン先生はカルテをデスクの上に置き、両手をあげた。カルテの角がゴム製の黒猫のおもちゃに当たって、音もなく転げた。
「ねえ、こういうこころの病を治療するのには、とても長い時間が必要なの。
今日、あなたが何も言いたくないのなら、それはそれで、仕方のないことなのよ? いつかあなたが自分から、どうしたいと言えるようになるまで、わたしは待つことにするわ。
だからゆっくりと、少しずつ、いっしょに治していきましょう? 気長にね」
チェン先生はスツールから静かに立ち上がると、再び窓際へいき、カーテンを閉めて、シャンプーの準備をはじめた。
To be continued.


それは、何もかもが白い部屋だった。男はその純白の中にあって、自分だけが唯一の黒い一点のシミのように思えた。
「どうしたの? うまく説明できない? それとも、自分でもどう言っていいのか、よくわからないのかしら?」
少し開いている窓から、春待ちのまだ冷たい風が吹き込み、ベージュのカーテンを揺らした。
チェン先生はスツールから立ち上がり、静かに窓を閉めた。
「とりあえず、その大きなマスクも、取ってくれないかしら? 声が聞き取りにくいわ」
けれど男は、マスクだけは取ろうとはしなかった。
「だめなの? そう。まあ、いいわ」チェン先生はスツールのところに戻り、再びそれに座って、言った。
「それじゃあ、もう一度訊くわよ? あなたの症状を、説明できるかしら?」
マスクの男はさっき質問されたときと同じように、黙り込んでいた。
そして、からからに乾いた喉を少しでも癒そうと、唾をごくりと飲み込んだ。
「さて、よわったわねえ。
これじゃあ、カルテも書けないわ」
チェン先生は音もなく足を組みかえて、言った。けれどその口調には、それほど差し迫った感じはなかった。
男はおもむろに頭を指差した。
「シャンプーをしろと言うのね? ええ、もちろん。それがわたしの仕事ですからね。
だけど、あなたがなぜここにきたのか、それを知っているほうが、わたしの治療は効果があるのよ?
ここは、だれもが簡単にこれる場所ではないわ。あなたもよくわかっているとは思うけれど。
だから、ここにくるひとたちはみんな、それなりに深刻な悩みを持っているわ。あなたもきっとそうなんだと、わたしは思うの」
マスクの男は、チェン先生を見つめたまま、また黙り込んだ。
チェン先生は真っ白な白衣の下に、胸元が開いたクリーム色の柔らかそうなシルクのブラウスを着ていた。そのブラウスの中では、白いきめ細かな肌はより透き通っていき、段々と透明になっているのではないかと思われた。
ふたりが沈黙している間、どれくらいの時間が過ぎたのだろう?
この白い部屋の中では、何もかもがとても静か過ぎて、時間は完全に止まってしまっているかのように男には思えた。
チェン先生がどれだけ待っても、いくら促してみても、マスクの男はそれから先はひとことも話さなかった。
「いいわ」
チェン先生はカルテをデスクの上に置き、両手をあげた。カルテの角がゴム製の黒猫のおもちゃに当たって、音もなく転げた。
「ねえ、こういうこころの病を治療するのには、とても長い時間が必要なの。
今日、あなたが何も言いたくないのなら、それはそれで、仕方のないことなのよ? いつかあなたが自分から、どうしたいと言えるようになるまで、わたしは待つことにするわ。
だからゆっくりと、少しずつ、いっしょに治していきましょう? 気長にね」
チェン先生はスツールから静かに立ち上がると、再び窓際へいき、カーテンを閉めて、シャンプーの準備をはじめた。
To be continued.
