誰かを批判的な目で見てしまう時は、それが自分が抱えている思いの投射であることに気づきたいです。
精神療法のプロセスは、単に赦しであると定義できる。いかなる癒しもそれ以外のものではあり得ないからである。赦そうとしない者は、自分が赦されていないと信じているので、病んでいる。罪悪にしがみつき、寄り添うようにそれを匿い、愛を込めて保護し、用心深く防衛するといったすべてが、赦すことに対する断固とした拒絶に他ならない。「神はここに入ってはならない」と、病んだ者たちは幾度となく繰り返し、その間ずっと、自分の失ったものを嘆きながらもそれを喜んでいる。[奇跡講座 マニュアル編(中央アート出版社)より]
その投射は、よくよく深く観察してみると、実は無意識に起こっているのではなく「自分」が望んでやっていることに気づきます。それはある種のカタルシス(浄化)で、そこから癒しがはじまります。問題を誰かのせいにしている内は、真の癒しは起こらない。
癒しは、患者が自分の歌っている葬送歌を聞き始め、その妥当性を疑うようになるときに生じる。それを聞くまでは、それを自分に向かって歌っているのは自分自身だということを、彼は理解できない。それを聞くことが、回復の第一歩である。その次に、それを疑うことが彼の選択とならなければならない。
でもカタルシスで終わらせていては、すぐに元の状態に戻ります。変容のためには、新しい認識で心を上書きしなければなりません。けれど、多くの人がスッキリしたことで満足して終わってしまう。
一つの非常に強い傾向として、「一瞬だけこの死の歌を聞いて、その後はそれを未訂正のまま無視してしまう」というものがある。そうしたつかの間の自覚は、文字通り「自分の歌の旋律を変える」ために私たちに与えられる多くの機会を表している。その旋律の代わりに、癒しの調べを聞くことは可能である。
上書き訂正する前に、自分の心に正直になって「その思い(苦しみや妬み、不安や悲しみ)を本当に手放したいだろうか」と、妥当性を疑うプロセスが必要になります。実はその思いに耽溺していたいと感じる自分、快楽を感じている自分を見つけられるでしょうか。それは真のあなたでしょうか?
しかしまず、咎めの歌の「真実性」を疑問視しようとする意欲が生じなければならない。自己概念の中に分かちがたく織り込まれた奇妙な歪曲が、その自己概念自体が擬似の被造物でしかないというのに、この耳障り音を真に美しいもののごとくに思わせている。
心に誓って自我が作り出した幻想の音を消したいと決めたら、新しい認識に心を開きます。
けたたましい不協和音の叫び声が聞こえる代わりに、「宇宙のリズム」や、「天の御使いの歌」などといったものや、さらにもっと多くのものが聞こえてくるのである。
ここで癒しは完了します。
癒しは、赦しは完了しています。
わたしたちは決して失敗することのない存在の歌を聞いたので、何度も癒す必要は本当はありません。けれど、わたしたちの思い込みの深さはかなり根深いので、きっとまた同じようにジャッジするでしょう。その度にこの3ステップを思い出します。
癒しの3ステップじぶんの旋律を変える方法
1.苦しみや罪悪にしがみついているのは自分であると認識・受容すること
2.そのことの妥当性を疑う意欲を持つこと
3.新しい認識で上書きすること(注:自我の不協和音ではなく、天の歌を聞く意欲)
そのようにすることで、時間を短縮できます。癒したならば、そのことを信頼するプロセスへと移行することがミラクル・ワーカーの仕事になります。すでに自分が赦されていることを信頼する道です。
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