隠すことに
快楽を感じるひとを
わたしは不潔だとおもう。
隠し事はある。
それは不潔でもなんでもない。
すべてしゃべることが
いいともおもわない。
そうではなく、
腐った魚が箱の中に入っているのに
決して中身を処理しようとはせず
それどころか
何重にも包装紙でぐるぐる巻きに
して匂いを遮断しようとする人。
その包装紙に
きれいな絵を描こうが
花の写真をプリントしようが
偽物の『美』に
いのちが宿ることはない。
箱の中には大事なものが
一緒に仕舞われているから
いつかは開けなくてはいけない。
人間関係なんて
どこまで脱げるかだ、
という
タロットとホドロフスキー
の教えがわたしの中に息づいてる。
数年前、
たしかカンヌ映画祭で
『リアリティーのダンス』
が上映されたとき
ホドロフスキーはすっぽんぽんで
動画を撮影して流した。
最初は爆笑したけど、
「わたしには隠すものなど何もない」
というビデオメッセージは、
そのシンボリックな姿とともに
強烈にわたしの中に残っている。
裸で過ごしてる(比喩ね)
人といるとわたしは安心する。
安心がすべての土台だ。
いまは土台づくりのときだね。