父と母との間には大きな壁が出来たまま…私はバイト先の関係で知り合った人と出来ちゃった婚をしました。これが元旦那です



父みたいな人とは結婚しない!!
と常に思っていたので、元旦那は本当に真逆なタイプでした。お酒もタバコもギャンブルもしません。色々あり、7年で離婚という形になりましたが…今は特に恨みなども無いです。
恨みが無いというか、興味が無いという表現がしっくりきますね。



それから1人で子供達を育てながら、親になって初めて分かる感情…。これにまた苦しんだのです。子供達はとても可愛い…小1なんて、まだ私からしたら本当に子供で。



でも、私は同じ歳の時には1人で深夜まで留守番してたのです。質屋に行かされていたのです。
……私の幼少期とは、と自問自答する日々でした。ただ母を待つしかなかった、母が私の世界の全てだった。そこに父と弟達が増え、私の世界はどんどん狭くなり追い詰められるばかり。



弟達も可愛いんです。
私の子供達をとても可愛がってくれて、弟達が居て良かったと心底おもっています。



でも母が憎い、父が憎い、許せない。
その感情だけは消化出来ず、今も引きずっています。でも2人は私に対して不当な扱いをしたとは思っていないし、まともに取り合ってもくれませんでした。



そのグチャグチャな感情といくら向き合っても答えは出ないし、自分がキツくなるだけで…。




最初に精神的におかしいと気付いたのは、不眠とやり場のないイライラでした。
とりあえず…という感覚で心療内科に通い薬を処方してもらっていたのですが、症状は酷くなるばかりで…。心療内科の先生に精神科への切り替えを勧められました。心療内科では使える薬もそんなにないから…という理由だったような気がします。



精神科にかかって、カウンセリングや治療法など相談している時に…ハッキリ言われました。
子供時代からの事が大きなトラウマで、それが克服出来ない事で自分を追い詰めてるんですね…と。


ACは常に子供時代のその時に居る、唐突なフラッシュバックで苦しくなってしまう。
また、私は自分が親になったことで余計に親の愛情や行動の異様さを再確認したんだろうと。


鬱病、双極性障害、そういうものに対する薬は出せる…でもACは薬が無い。
これは少しずつ自分なりの克服というか、自分で小さい時の自分を助けてあげてあげなきゃいけない……。



人に話すと、ほとんどの場合が

「いつまでも過去に縛られないで」
「過ぎた事をいつまでも言ってても変われないよ」
「今からをどう生きるか、それが大事」

こんな風に返ってきます。


確かにどの意見も間違いではないです。
でも、響かない。
そういう言葉は少しも私の中に入ってこない。


励ましてくれているのかすら分からない。


そんなんじゃない。
過去じゃない。
前に進むとか進めないとか、そんな事じゃない。
子供は親を選べない、私の何がダメだったのか?私がいつ何をした?
悔しい、憎らしい、そういう感情ばかりに支配されてしまうのです。



癌になって、命の危機に向き合って…少しマイナスな感情は大人しくしてくれています。
でもやはり唐突なフラッシュバックだけはどうにもならず…。



ふと、タイムスリップが出来たら…あの時の私を連れて逃げられるのに…なんて考えてしまったり…。




虐待のニュースを見る度に、胸の奥が苦しくなるんです。私は死にはしなかった…でも、この子達は生きることすら許されなかった。
虐待死させた親の理由は98%くらいは下らない。そんなことで命を奪われてしまう子が居るなんて…。



大人になってもこうして苦しい…。



トンネルにまだ光が見えない。
きっと、父や母が亡くなっても変わらないんだろう…と思う。






父と何度か会って、すぐに父の住んでいた父の実家で一緒に暮らせるようになりました。


父、父の母、父の兄が3人で住んでました。
近くには父の姉も住んでて、私より1個上の従兄弟も居ました。


最初は良かったんですが…少しずつ、父の本性が出てきたんですね。
ギャンブル好きの酒好き、よく理不尽な事で叱られたりしました。…正直、唐突に現れた娘に愛情など持てなかったんだと思います。


父と暮らしはじめて1年も経たないうちに、母が妊娠しました。ひとりっ子だった私は嬉しくて、本当に産まれてくるのが楽しみでした。
そして、弟が産まれました。この頃から、色々なものが歪み始めたと思います。


父も赤ちゃんの時から見ている弟は可愛いようで、あからさまに私を邪魔者扱いしました。



でも、私が今でも忘れられないのは母の言葉です。



「男の子って可愛い!赤ちゃんがこんなに可愛いなんて知らなかった!」



子供ながらに、私は……?って気持ちでやるせなかったです。今でも母は、女の子は扱いにくくて可愛くないけど、男の子は何歳になっても可愛い!!と堂々と言います。


それから、次の年には2番目の弟が産まれ、さらに次の年には3番目の弟が産まれました。
私は年子の3人の弟が出来て、4人姉弟になりました。


常に育児の手伝いを強要され、罵倒され、殴られ…。夜中に叩き起されて、コンビニまで自転車で買い物に行かされたこともあります。小学校5年生くらいの時です。タバコやお酒は毎日のように何度も往復して買いに行かされました。友人と日曜日に遊びたいと言えば「お前は弟達の面倒を見なきゃいけない!」と父に言われ、むしろそういう運命なんだと言われました。この頃から少しずつ、本気で父に殺意を持つようになりました。


そんな生活がずっと…私が19歳になるまで続きました。アルバイトしてもほぼ全額取られ、高校では教科書も買ってもらえずに父の兄が買ってくれました。中学のお弁当もとても人には見せられないようなもので…。でも弟の幼稚園のお弁当の日はキャラ弁など作るんです。その日だけは、私のお弁当もまともなおかずが入っていました。


高校に入ってからは、アルバイトのお金でパンを買ったり、学食で食べたり…。お金が無い時は何も食べず我慢しました。
周りの友人を見ると、虚しくなるばかりで…毎日が本当に辛かった。
父への殺意と、自ら消えたい気持ちが葛藤する日々で…こんな事なら父に会わない方が良かった…と何度思ったことか。



19歳の頃、アルバイト仲間の家に居候させてもらい…ひたすら働きました。
夜中に起こされない、殴られない、そういう安心感が私を少しずつ元気にしてくれたと思います。
それと同時に、この時期に父と母が離婚しました。それを機に、私も家に戻り少しの金額でしたが家にお金を入れながら生活しました。



でも父は弟達に会いに頻繁にくるし、顔を合わせれば私とは大喧嘩でした。
父が私を可愛く思えなかった理由は、色々あったかもしれませんが…1度だけ言われたことがあります。


「本当に俺の子か分からないのに、育ててやった!!」


この言葉は今も忘れられません。
確かに、DNAを調べたわけではないし…母が言ってるだけで根拠も証拠も無かったんです。
でもショックでした。
本当に言葉が見つからないくらいの衝撃でした。



母も父も、どちらも信用など出来ない。
こんな人達が親になるべきではない…何度もそんな風に思いました。
なぜ私だけがそんなふうに扱われなくてはならないのか、そんなふうに言われなくてはならないのか…それは私の責任なのか??
どう考えても違う。


物を投げつけられたり、執拗に説教され殴られ…クリスマスにプレゼントをもらう弟達を見ながら、私は場違いだなぁ…と思いました。
誕生日も、ポイと500円くれてそれプレゼントだから…って…私もう中学生なんだけど。
しかもその1回だけです。くれたのは。


でも父の兄や姉は私の事を可愛いがってくれました。誕生日なども、私の喜びそうな物を探して買ってきてくれました。
本当にそれは救いになったと今も思う。


この状況で、当時すでに発狂して精神科にかかっててもおかしくないと思うけど…我が家は極貧だったので病院なんて行けませんでした。
だから当時から少なくとも精神に何かをきたしてたと思うんです。


続きます


アダルトチルドレン


聞いた事ありますか?
割と耳にはする言葉ですよね。


私の双極性障害の発端はそこです。
いわゆるアダルトチルドレンと呼ばれる環境で育ちました。


フラッシュバックに今も苦しんでいるので、記事を書くか迷ったんですが…同じような方が居たら、対話してみたいと思って…。



私が物心ついた時には、母しか居ませんでした。母は18歳で私を出産し…母子寮で育児を始めたんですね。母子寮の部屋の中や、当時は共同だったお風呂やトイレ…敷地内にあるブランコなどを覚えてます。まだ3歳くらいだったと思うんですけど…割としっかり覚えてます。


母には両親が居ません。
正確には、母が小さい時に両親は離婚して母は父方に引き取られました。母の母は後に再婚したようで、母も15歳の時に会ったのが最後で私を出産した時には居場所も何も分からない状態になってたんですね。今も分からないので、私は母の母には会ったことありません。顔も分かりません。
母の父は、素行が悪かった母に愛想を尽かして縁切り状態でした。でも、私は何度か会ったことあります。…他人感しかなかったけど。



母子寮にいた時、そこがどういう人が住む所なのか…何も分かりませんでした。
でも、他にも子供は沢山いたし楽しかったような思い出があります。



問題は母が母子寮を出て、アパートを借りてからでした。なぜ母子寮をでたのか、母曰く母子寮の規則が多いことにうんざりしたようでした。
アパートに住み出してすぐ、母はスナックで働き始めたんです。私は小学校に上がったばかりでした。最初の頃は母がスナックで働く間は母のお爺ちゃん、私からしてひい爺ちゃんが一緒に留守番してくれてました。


でも、半年ほどして突然ひい爺ちゃんは亡くなってしまいました。眠ったまま、静かに亡くなったそうです。お爺ちゃん子だった母が、ずっと泣き続けていたのを覚えてます。



それから、留守番してくれる人は居なくなり…小1だったにも関わらず…夕方の18時くらいから夜中の3時過ぎまで1人で母を待つ生活になりました。朝まで帰ってこない日もありました。


寂しいと泣けば叱られ、夜中に寂しさに耐えきれず…玄関の外で母を待ってウロウロしては、また叱られ…店に電話しても叱られる。
帰ってきても酔っ払って夕方の仕事時間近くまで起きない。


そんな生活を近所も少し不審に思ったのか、何度か通報されてたみたいです。
理由の一つは私が学校にも行っていなかったこと。真夜中まで起きてるので、私も朝は起きてないし…母も起きない…。
学校に行きなさいなども言わず、児童相談所らしき所からの訪問が頻繁になると逃げるように引越し。私の記憶では短期間の間で7回は引越ししました。


最終的には母のスナックの友人宅を泊まり歩く生活になり…結局ずっと1人で留守番という状況も変わりませんでした。
食べ物はいつも外食かお弁当。お金が無い時は、母に「これを質屋に入れてきて!」と色々な物を持って行かされました。…冷静に今考えても、おかしい。子供に質屋…??


でも物は買い与えてもらっていた方だと思うんですね…玩具とか。洋服も。
母は今思えばお金の使い方が下手だったんだなーと思います。


あちこちを転々としながらも、ついに限界が来たのか…母は私の父に連絡をして会う約束を取り付けました。私は父の事を死んだと聞いてたので、ビックリしたんですが…。


ビックリしたのは父もでした。
私が産まれていること、そもそも母が妊娠していた事すら知らなかったんです。
私が居なかったら、会う事はしなかった…と最近呟いてました。



父は兄弟も多く、父方のおばあちゃんはとても元気でした。それを知った時に、父と暮らせれば母はスナックで働かなくて良い!そしたら1人で留守番もしなくていい!と素直に思いました。


でも、私の期待とは裏腹に……
此処からが私にとっての地獄だったのです。


続きます。