日本はもの言えぬ国になるのでしょうか。上川外相の「生む」発言撤回です。

 

女性が、新しいことを生み出すことを言っていると思います。でも、撤回しました。女性に子供を産むことを強いたと言われることを気にしたと思います。でも、これでは、今後、「生む」という言葉は使えなくなると危惧します。そんな社会でいいのでしょうか。それを当たり前、当然のこととしている、マスコミ、ジャーナリズム、各政党に疑問を持ちます。今後の、自分たちの言論活動にどれだけの影響が出るか考えられないのでしょうか。

 

何故、今回の発言が問題なのか、全く不明です。新しい状況を生み出そうと言っているだけです。それを、揚げ足取りをして悪く解釈することが問題ではないでしょうか。これが駄目なら、仕事場での朝礼や挨拶やすべての場面で、「生む」、「産む」と言う言葉は使えなくなります。そんな世の中が本当にいいのでしょうか。女性に、子供を産むことを強いていると言いたいのでしょうが、子供を産むことが出来るのは女性だけです。強いているわけではありません。

 

今回、各政党は、撤回は当然と思っている節があります。では、今後、各政党は、女性の前で「生む」、「産む」と言う言葉は使わないのでしょうか。女性の前だけでなく、女性対する表現に、「生む」、「産む」と言う言葉は使わないのでしょうか。マスコミ、ジャーナリズムに対しても、同じことが言えます。今後、あなたたちは、女性に関しては、「生む」、「産む」と言う言葉は使わないのですね。

 

でも、本当は、今回のような事態が起きたときは、それはおかしいのではと、問題的すべきではないでしょうか。それが、本来の政党やマスコミ/ジャーナリズムのやるべきことではないでしょうか。言論の自由をいかに守るか。それが本来の仕事ではないでしょうか。

 

言論の自由を守るには、ご都合主義で発言を撤回するのではなく、あなたたちの言っていることがおかしいのではと、問題提起することが大事と思います。強権的な言論弾圧には、おかしいと声が挙げられます。「でも、俺は言うんだ。」と言う人も現れるでしょう。でも、ご都合主義の発言撤回は、目に見えない言論封殺へと繋がると思います。

 

過去にも、ご都合主義差別撤廃とかで、大和言葉が排除されました。「めくら」、「おし」とかです。でもそれらは、差別語ではありません。目の見えない人、モノの言えない人、ただそれだけの事です。それを、差別語だとか言って、何をしたか。新しい差別語を作り、侮辱的な表現をその人たちに与えただけです。障害者、盲人、聾唖者等々。これが差別語でなくて何なのでしょうか。障害でもないのに障害のある人。目が見えないだけなのに、盲人;目の無い人。目はあります、見えない状況は人によって違います。それを、盲人と片付ける。ご都合主義の差別撤廃です。

 

話が、逸れかけました。言論の自由や差別撤廃。言葉はきれいですが、ご都合主義でやっているうちは、本当の言論の自由や差別撤廃は実現できないと思います。それどころか、言論の自由の封殺、新たな差別の発生になっていると思います。

 

今回の、上川外相の発言撤廃については、各政党、マスコミ/ジャーナリズムは、本当にこれでいいのか、大いに反省してもらいたいものです。

 

                        令和 6年 5月 20日