東京15区での選挙戦で、選挙妨害についての報道があります。他候補の演説中に大音量で演説するとか、暴力的に割り込むとかしたようです。

 

事の起こりは、安部元首相の演説時にヤジを飛ばした人に対しての警察の注意が、裁判でやりすぎとされたことによるようです。これにより、多少の妨害に対しては警察は注意がし難くなったとの指摘もあります。

 

でもこの時、野党は安部元首相側の対応を批判していました。今更、自分たちが同じ目にあったからと言って、批判し、問題視するのはおかしな話です。批判するのなら、判決が出たときに、批判するべきです。相手を攻撃するためなら何でもよくて、同じことで自分たちに火の粉がかかると批判する。政治家として最もダメな態度と思います。

 

それにも増して、このような判決を出した司法にも疑問を持ちます。本来司法とは、国民の最大幸福となるように判決をすべきと思います。それを、ただ、一部マスコミの報道や表現の自由だとか、耳障りの良い男女平等だとか、見せかけの多様な価値観だとかに踊らされたような判決を出していると思います。なにか、やったもの勝ちの判決になっているように感じます。

 

その最たるものが、一票の格差判決ではないでしょうか。政治は、人数で決めるものでしょうか。こんなくだらない判決は日本でしか出ないでしょう。国連は、各国が一票を持っています。人口割にはなっていません。人口に関係なく平等なのです。アメリカは、各州の法律が優先することが多いです。大統領選の選挙人も人口割ではありません。その国の成り立ちやその州の成り立ち、地方自治をどう考えるか、各国の主権をどう尊重するか、諸々のことが考慮されていると思います。

 

日本で言えば、各県の声をどう取り上げるか、各県の主張をどう平等に取り扱うか、もともと各藩に分かれていた行政の継続をどう考えるか、地方自治をどう考えるか等々が考慮されるべきと思います。何でもかんでも人口割割をするのなら、高放射能性廃棄物処理も人口割にすべきです。基地負担も人口割にすべきです。飛行場建設も人口割にすべきです。

 

こう言うと、それらの事も裁判に訴えればよいと言うでしょう。でも一般人にはそんな余裕はありません。おかしいと思っても、泣き寝入りするしかありません。一票の格差裁判を起こした弁護士は、自分たちが手弁当で簡単にできるからやれたのであって、もし弁護士でなければ、本当にやれたでしょうか。

 

このような一部を取り上げた一見公平そうな訴えに対して、国民全体を見た判決を出すのが司法ではないでしょうか。一見平等そうな、実は不平等な判決を出す司法には、何も期待できません。それどころか、国を滅ぼしかねないと思います。冤罪事件が起きるのも、何も警察や検察の捜査だけに問題があるのではなく、問題の本質に迫らない司法にも責任があるのではないかと思います。

 

このままでは、日本は言ったもの勝ち、やったもの勝ち、弁護士会の言ううがままの国になるのではないかと心配です。司法には、もっと国民全体を見て欲しいものです。三権分立の意味も、そこにあると思います。

 

                      令和 6年 5月 1日