陸上自衛隊が、SNSで「大東亜戦争」という表現を使用したことが、一部で問題となっているようです。批判する人は、アジア差別だとか、侵略思想だとか言っているようです。

 

でも、批判派の人たちが日ごろ言っていることは、「歴史の改竄はいけない」だとか、「歴史は勝者が書いたものだ」とかです。この言葉に従うと、「大東亜戦争」を使わないことは。歴史の改竄にあたるのでは。日本では、「大東亜戦争」と名付けています。「太平洋戦争」でも「第二次世界大戦」でもありません。日本は「大東亜戦争」として戦ったのです。これを隠して、日本が別の名前で呼んだのでは、連合国軍が何と呼ぶかは別ですが、戦場となった東南アジアや沖縄を馬鹿にしていると思います。別の名前を使うなど、歴史改竄以外の何物でもありません。

 

「大東亜戦争」と言う名には、アジアに対する優越感、差別思想があるとか、アジアを西欧から解放しようとしたとかいろいろ言われます。でも、このような意見が出るのも、「大東亜戦争」という言葉を使うからです。史実を直視することから次の段階に進めるのではないでしょうか。

「太平洋戦争」とか「第二次世界大戦」と言っていては、日本の開戦動機の議論にはならないと思います。アジアに対して日本がどう考えていたのか、侵略しようとしたのか、解放しようとしたのか、議論にはなりません。そういう教育をすればよいと言うかもしれませんが、そこには勝者の歴史と言う言い訳が登場し、自分たちのしたことの正当化であるとの反論が出るでしょう。実際、米欧は、アジアを侵略し、植民地化したのですから。「大東亜戦争」と言う表現批判派の人には、この点には目をつむる人が多いように思います。

 

「歴史は勝者が書いたもの」との観点に立てば、「太平洋戦争」、「第二次世界大戦」という呼び方は、勝者の呼び方となります。その呼び方で、日本を批判したところで、勝者の言っていること、勝者に都合の良い歴史観と反論されます。また、それらの呼び方は、米欧が自分たちのアジアでの立場を守るために名付けたところもあると思います。そうなると、自分たちのやったことを薄めることが、同時に日本がやったことを薄めることにも繋がります。「大東亜戦争」名批判派の人は、日本がアジアでやった負の遺産を追及したいのでしょうが、「大東亜戦争」を封じ、「太平洋戦争」、「第二次世界大戦」と言う表現を使うことで、米欧がアジアで行った負の遺産を薄めることに力を貸し、同時に日本が行った負の遺産を薄めることに力を貸しているのではないでしょうか。

 

歴史を検証するには、事実を無視してはいけないと思います。自分たちが、どう呼んででいたのか、どう表現していたのか、そこから始まると思います。それを、後々の言葉で表現して、それをベースに検証しても、正しい検証にはなりません。日本で、いじめや差別がなくならないのは、このように実際に使われていた表現でなく、後々に言い換えられた表現で検証するためも一因かと思います。「めくら」、「おし」等の表現が差別語として扱われ、「身障者」、「聾啞者」・・良い表現とされています。どれだけ差別意思があろうと、「身障者」、「聾唖者」・・と言っている限り批判されません。「めくら」、「おし」というと、彼らに寄り添っていても糾弾されます。「大東亜戦争」批判も、同様のことがあると思います。

 

日本がアジアに対して何をしようとしていたのか、どのように考えていたのか、これら諸々もことを考えるには、「大東亜戦争」というキーワードを避けては通れないと思います。なぜ、「大東亜戦争」と名付けたのか、なぜこの名前で戦ったのか、それを考えることから、日本のアジアに対する考えがわかるのではないでしょうか。また、そうして考えていく必要があるのではないでしょうか。それを、「太平洋戦争」、「第二次世界大戦」とかから考えても、日本がどう考えていたのかの本当のところはわからないと思います。

 

嫌いだから、思想に合わないから、との理由で言葉狩りをするのはいい加減やめるべきと思います。きちんと、正しく使われていた言葉を用いて、物事を考えるべきと思います。「大東亜戦争」も単に毛嫌いするのではなく、日本がその言葉を使っていたという事実を再確認し、良きにつけ悪しきにつけ、「大東亜戦争」と言う言葉を使っていくべきと思います。

 

                      令和 6年 4月 19日