NHK朝ドラで「虎に翼」が始まりました。その冒頭で、日本国憲法の第14条が登場しました。そうです、「国民は法の下に平等である」との規定です。

 

でも、「法の下の平等」とは、どういうことでしょうか。どうであれば法の下の平等と言えるのでしょうか。法令には、こうであれば平等であると書いてあるわけではありません。最終的には裁判で争って、決着するものです。と言うことは、多分に恣意的なものと言わざるを得ないと思います。弁護士と裁判費用を有するものと裁判官とで、彼らの価値観で判断したことが、平等とされるのです」。

 

良い例が、一票の格差問題です。頭数で割って議員に数を決める。一見平等のようですが、人口の少ない地域はそれだけ発言権が低くなります。すなわち、国政に対してものを言ううことができなくなります。それで、平等と言えるのでしょうか。外国人犯罪においても、難民認定審査中と言えば強制送還を免れます。でも日本人は、たちどころに罰則が科せられます。また、こういうことを言うと、ヘイトであると言われます。日本人が疑問を表明するとヘイトです。これで平等と言えるのでしょうか。

 

元来、日本の社会では、多様な価値観があり、それらが互いに衝突を繰り返しながら、均衡のとれた社会を形作ってきたと思います。男女間格差についても同性愛についても各人や集団、ネットワーク内の価値観で判断し、折り合いをつけてきました。当然、納得もあれば不満もあったでしょう。でも、長い営みの中で、折り合いをつけ、右に左にと紆余曲折しながら暮らしてきたと思います。外国人に対しても、受け入れることも有れば拒否することも有ったと思います。でも、それらは、国民生活の中で折り合いをつけて、地域ごとの価値観を作って今までやってきたと思います。

 

男女の不平等はについても、社会形態による結果や、資源の問題もあると思います。例えば、女性の数の少ない職場では、女子トイレの数は少ないでしょう。でも、男性の数が少ない職場では、男性トイレの数は少ないと思います。これを、平等の名の下に同数にしていては、資源の無駄と思います。そして、数が均衡してくれば、その職場内の調整で数も調整されます。また、そうしなければ、新人も取れなくなり、企業の業績、ひいては存続にも影響します。

 

しかし、「法の下の平等」という、あいまいで訳の分からない基準を持ち込んだことで、多様な価値観が破壊され、折り合いをつけて暮らしを形作ることが出来なくなったと思います。

 

「法の下の平等」と言う規定に基づき、法律を作った層や裁判のできる人間や裁判に関係する弁護士、裁判官、すなわち権力者と言われる集団の価値観が反映され、それが上意下達の形で押し付けられてくる。これが「法の下の平等」の正体ではないでしょうか。すなわち、多様な価値観を排除し、一部支配者階層価値観を押し付ける道具、これが「法の下の平等」ではないでしょうか。

 

「法の下の平等」。一見いいことのようですが、平等と言う言葉に騙されないで、もう一度、よく考えてもらいたいと思います。多様な価値観を持って生活していた社会が、一部の価値観を押し付けられた社会になるというものであることを。

 

                         令和 6年 4月 5日