Ayako先生 のブログより



こんにちは、ご訪問ありがとうございます。
ココロとカラダの調律師・パーソナルヨガトレーナーAyakoですクローバー

 

 

前回の記事で

「サット、チット、アーナンダ」

についてお話しさせていただきました。

 

 
सत् (サット)=「純粋な存在」
चित् (チット)=「純粋な意識」
आनन्द (アーナンダ)=「純粋な喜び」 



私たちの「本質」を表している言葉で

これらは全てプルシャ(神)です。


今回は、この中の

「सत् (サット)=純粋な存在」

ということについて、
もう少し掘り下げて
考えてみたいと思います。

 

(こちらは2012年1月26日のコラムを加筆修正したものです。)

「純粋な存在」と聞くと、
「純粋」も「存在」も
難しい言葉ではないので、

「そうか、純粋な存在なんだ」

と、なんとなく
わかったような気がします。


では、この「純粋な存在」とは、
具体的にどういうことでしょうか?


ここで少し考えてみます。


私たちが「私」について語るとき、
どのように語るでしょうか。


私とは何か。
私とは何ものか。


「私という存在」について
誰かに説明するとき。


まず、名前や性別、年齢、職業などを
説明するのではないでしょうか。


「私は○○という名前です」
「私は会社員です」
「私は学生です」
「私は女性です」
「私は○歳です」


もしくは、特徴として
肉体的な外見を説明するかもしれません。


背が高い、背が低い、
やせている、太っている、
肌の色、目の色、血液型。。。


もしくは、
国籍や出身地を言うかもしれません。


もしくは、
趣味や特技を言うかもしれません。


しかしです。


名前が「私」でしょうか。
性別が「私」でしょうか。
職業が「私」でしょうか。
年齢が「私」でしょうか。
肉体が「私」でしょうか。
特性が「私」でしょうか。


これは純粋な「私」でしょうか?


「私」そのものは「名前」ではありません。
「私」そのものは「性別」ではありません。
「私」そのものは「職業」ではありません。


他のどの項目であろうが、同じです。


もし、「私」が他の名前であっても、
「私が存在すること」は変わりません。


もし、他の性別や職業であっても、
「私という存在」は変わらないのです。


あくまでこれらは、

「私の属性」

にすぎません。


そこに「私」の「本質」はないのです。


では、本質的な

「私という存在」

とは何でしょうか。


これらの、「私の外側」にある
全ての属性を除いたもの。


どんな属性によっても変わらない、
ただ「私が存在する」ということ。


それが、

「純粋存在」=「सत् (サット)」

です。


どんな名前であろうが、
どんな職業であろうが、
関係ありません。


どんな性格であろうが、
どんな体型であろうが、
関係ありません。


「誰か」が私を判別するための
私の「外側」にある「属性」。


それを全て取っ払った、
ただの「私」という存在。


それは、究極に純粋なものです。


これは、人間だけに
限ったものではありません。


植物であろうが、
動物であろうが、
鉱物であろうが同じです。


「花」という「名称」が
「花」の存在そのものではありません。


「犬」という「分類」が
「犬」の存在そのものではありません。


「石」の持つ「成分」が
「石」の存在そのものではありません。


名称も分類も特性も、
それの「外側」にある
属性にすぎないのです。


そして、何の属性にも
捕われない「存在」は、
究極に「純粋」であると同時に、
究極に「自由」なものでもあります。


その純粋な存在と向き合った時、
「存在する」ということが
いかにすごいことか、

自分の力では作り出せない「私」が
この世に「存在する」ということが
いかに奇跡的なことか、

言葉では言い表せない、
深い味わいと感謝がわき上がってきます。


これこそが、「सत् (サット)」であり、
それはすなわち「プルシャ」なのです。


私たち、生きとし生けるもの全ての存在が、
この「सत् (サット)」なのです。


人種がどうとか、
宗教がどうとか、
そんなものは「私」の
「外側」にあるものなのです。


外見がどうかとか、
職業がどうかとか、
大きな存在から見れば
そんなことは小さなことです。


全てのものが、
全てのエネルギーが、
「存在している」。


この「存在」の本質が、
純粋性を持った「सत् (サット)」なのです。


私たちの存在の本質は「सत् (サット)」である。


この素晴らしい真実を、
ただの「知識」としての
表面的な理解で終わらせるのでなく、
私たちが「सत् (サット)」であることを
確かなものとして体験する。


それが、瞑想であり、
ヨーガなのです。


そして私たち人間だけが、
「सत् (サット)」を認識できる「意識」を持ち、
ヨーガの道を歩くことができるのです。


何にも属さない「私」という「存在」。


皆さまも、

「私とは何か」

ということについて、
意識を向けてみてください。


「私が存在する」ということの
何物にも代え難い素晴らしい尊さを、
ぜひ、直接の体験として
味わっていただけたらと思います。