Ayako先生 のブログより



こんにちは、ご訪問ありがとうございます。
ココロとカラダの調律師・パーソナルヨガトレーナーAyakoですクローバー

 

 

以前、故長谷川先生の先生のもとで
ヨーガスートラの勉強会に
参加させていただいたとき、
こんな言葉を教わりました。


प्रकृति पुरुष विवेक ख्याति ।
(プラクリティ プルシャ ヴィヴェーカ キャーティ)



これは、

「プルシャとプラクリティを
 見分ける能力」


という意味です。
 

(こちらは2012年1月10日のコラムを加筆修正したものです。)


インドには多くの教典がありますが、
全ての教典の教えは
プルシャとプラクリティを
見分けるためのものだそうです。


この「プルシャ」と「プラクリティ」は
インド哲学において重要な言葉ですが、
とても意味が深く、言葉ではなかなか
説明しにくいものでもあります。


あえてざっくり簡単に言うと、

プルシャ:目には見えない世界のこと
プラクリティ:目に見える世界のこと


になります。


ですから、目に見えない
イーシュヴァラやブラフマン(=神)も、
「プルシャ」です。


「プルシャ」は私たち人間には
見えないけれども確実にあるものです。


そして「神の世界」のこと

ですから人間にどうこう

できるものではありません。


自然の法則だったり、
真理だったり、
「なぜ?」という疑問を
挟めないものです。


「プラクリティ」は
私たちが生活している
物質世界全てのことです。


肉体をはじめとして
ありとあらゆる物質は
全てプラクリティです。


たとえそれが微細で
肉眼では見られない
ものだったとしても、
「物質」であるものは
全てプラクリティなのです。


そして、プルシャには
「歴史」がありませんが、
プラクリティには
「歴史の蓄積」があります。


これはどういうことか、
「食べる」ということを
例にあげて考えてみましょう。


人間の歴史において、
食べる物はたくさん、
それこそ無数にあります。


植物から動物まで、
ありとあらゆるものが
食べ物になります。


そして、食べるための
方法もたくさんあります。


焼く、煮る、炒める、
蒸す、ゆでる、あえる。


お箸で食べる、
スプーンとフォークで食べる、
手で食べる。


道具も食べ方も調理法も、
時代や文化によって変化し、
そこには必ず歴史があります。


しかし、「食べる」こと
「そのもの」は、
たった一つしかありません。


どの時代でも、
どの生きものでも、
「食べる」ということの
意味は一つです。


時代によって、
文化によって、
変化するものでは
ありません。


千年前に生きた人も、
今生きている人も、
そして千年後の人たちも。


食べる物や食べ方は
変わるでしょうが、
「食べる」ということの
意味はたった一つです。


誰もが、同じように
「食べる」のです。


これは、理屈ではなく
神から与えられた力なのです。


そしてこれは「見る」ことや
「聞く」ことや「歩く」ことや、
何か他のことでも同じです。


見るものは、無数にあります。


しかしその無数の「もの」を
「見る」ということは、
世界中探しても一つしかありません。


聞くものは、無数にあります。


しかしその無数の「もの」を
「聞く」ということは、
世界中探しても一つしかありません。


歩くところは、無数にあります。


しかしその無数の「ところ」を
「歩く」ということは、
世界中探しても一つしかありません。


このようにプラクリティは
「歴史」を持ち「変遷」しますが、
プルシャは普遍的なものです。


たいていの人は、
この神から与えられた
「能力そのもの」や
「現象そのもの」ではなく、
その「対象」について
あれこれ追い求めます。


プルシャの世界を見ずに、
プラクリティが世界の全てだと
思ってしまっているのです。


しかし、プラクリティは
「形あるもの」であり、
いつかなくなるものです。


絶対的なものでも、
永遠のものでもありません。


プラクリティを
基盤にしてしまったら、
いつかそれは崩壊します。


そうではなくて、
目に見えないけれど「確実」にあり、
普遍的な力で私たちを支えている、
「プルシャ」の世界こそが、
生きる基盤となるのです。


それをきちんと認識する、
違いを正しく見分ける力を
身につけることが重要なのです。


そして、プラクリティに振り回されず、
プルシャ=イーシュバラ=神を
「心の軸」とする。


もちろん、世界はプルシャと
プラクリティの両方が
あってこそ成り立ちます。


プラクリティが悪で
プルシャが善ではありません。


どちらもなくてはならないものなのです。


プラクリティがなければ
私たちの肉体も
存在できないのですから。


花はプラクリティですが
花が咲くことそのものは
プルシャの力です。


肉体はプラクリティですが
肉体を持って生きることそのものは
プルシャの力です。


ただ、プラクリティは
無限ではありません。


肉体は、いつか滅びます。


その不確かな肉体=プラクリティを
基盤に生きてしまったら、
生き方そのものも
不確かなものになってしまいます。


目には見えないけれど、
普遍的で、
いつもそばにあって、
確かなるもの。


それが、プルシャです。


何がプルシャで、
何がプラクリティか。


これを見分けられなければ、
プルシャを基盤にできないのです。


だからこそ、ヨーガでも
プルシャとプラクリティを
見分ける能力が求められるのです。


それは、

「ものごとを正しく認識する能力」

と言ってもいいと思います。


正確に見分けれないからこそ、
正しく認識できないからこそ、
人生に「迷い」が生じてしまうのです。


私自身、まだまだ
見分ける能力が足りていませんが
もっともっと「確実に」
ものごとを見ることができるように
ヨーガの修練を積んでいきたいと思います。


ぜひ皆さまにも

「プルシャとは」
「プラクリティとは」


ということを
考えてみていただけたらと思います。