「 写 経 会 」
時間は、朝の10時から11時半までです。
日程は…、
1.おつとめ 礼讃文・重誓偈(焼香)・私たちのちかい。
2.みなさんに写経していただく部分を住職がお話ししました。
3.みなさんに写経していただきました。
4.お茶とお菓子をみなさんと一緒にいただきました。
5.恩徳讃を歌って解散しました。
今回は、「重誓偈(じゅうせいげ)」の3回目です。
お話は、時折ご門徒のみなさんから「仏さまと如来さま、お釈迦さまと阿弥陀さま、何が一緒で、何がどう違うのですか…」という質問を受けることがあります。
そこで、今回は「仏(ぶつ)、如来(にょらい)」についてお話しすることにしました。
※「仏(ぶつ)、如来(にょらい)」について
「仏」とは、梵語(ぼんご)ブッダの音訳で、仏陀とも音訳し、覚者(かくしゃ)と意訳します。
意味は、「目覚めたもの、真理をさとったもの。自らのさとりも、他をさとらしめるはたらきも完全に窮まり満ちたもの」ということです。
「如来(にょらい)」とは、梵語タターガタの意訳で、「真如(さとり)に到達したもの、衆生を導くために真如(さとり)より現れ来ったもの」という意味です。
「真如」とは、梵語タタターの意訳で、「かくあること。衆生の虚妄分別(こもうふんべつ、うそ、いつわりの分別)を超えた存在のありのままのすがた」という意味です。
つまり、私たちは自分がもつ身勝手な思いで「良いもの」と「悪いもの」とを分け、「要るもの」と「要らないもの」とに分別していきます(虚妄分別)が、仏さまは私たちがもつような身勝手な分別を超えて(無分別)、すべての存在をあるがままに尊いものと見られ、分け隔てすることなく一つ一つの命に大切に接していかれるということです。
ですから仏さまの世界(さとりの世界)には争いや苦しみがないのです。
こうしてみると「仏」も、「如来」も、ほぼ同じ意味であることが分かります。
あえていうなら「仏」とは、「真如(さとり)に目覚めたもの」ということでしょうか。
「如来」とは、私たち凡夫を真如(さとり)の世界に導くために、真如の世界から現れ来たったもの」ということになるのではないでしょうか。
以上が、「仏(ぶつ)、如来(にょらい)」についての一般的な理解です。
なお、浄土真宗でいうと…。
お釈迦さまは、阿弥陀さまのご本願のお救いを私たちに説き示すために、この世に現れ出でてくださった仏さまと解釈します。
阿弥陀さまは、お釈迦さまの説法(「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」)によって、明らかにされた仏さまと解釈します。
また、お釈迦さまの説法(「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」)は、一切の衆生を真如(さとり)の世界に導き入れるために、真如(さとり)の世界から阿弥陀さまがこの世にお釈迦さまとしてお生まれになってなされたものとも解釈します。
浄土真宗の僧侶がご法話をする場合、一般的な意味で「仏さま」という時もあれば、阿弥陀さまのことを「如来さま」とか「仏さま」という時もあるので、聞いている方は理解することが難しいかもしれません。
ご法話をする方(私)も気をつけますので、これからもよろしくお願いいたします。
もう疲れましたね 。
ここまで読んでいただきありがとうございました (感謝)
今日はここまで…
今、うちのお寺の庭では、いろんな花が次から次へと咲いています。
これは躑躅(つつじ)
漢字で書くと、こんなに難しい漢字になるんですね…
一昔までは、植物にまったく興味がなかったのですが、私も還暦を過ぎ気持ちが変わってきたのでしょか、植物に目が向くようになってきました。
おかしなものですね…
このように気持ちや考え方が変わっていくことも諸行無常というのでしょうか…。
ならば、少しでも良いように変わっていきたいと思うことです
次回の「写経会」は、6月1日(木) 午前10から11時半です。
お問い合わせは、明円寺まで (電話 0823-21-4103)。
よろしくお願いします (合掌)。