再び繋がった、その後に… -3ページ目

再び繋がった、その後に…

あるがままに心穏やかな楽しい日々を♪

前回も書いた通り、宇宙のシステムとしては、基本的に自分の思考や希望が現実化するシステムにはなっています。

ただ、実際のシステムの機構(メカニズム)は、我々の表層的な思考力によって想定しているものとは多少異なるだろうと思います。

宇宙にはもう一つ、「カルマの反動」という重要な原則があるからです。

「カルマ」とは、よく「業」などと記述されていますが、サンスクリット語の直訳では「行為」を意味します。

「行為」ですから、良い行為も悪い行為も含まれます。
悪いことをしたら自分に悪いことが返ってくる。
良いことをしたら自分にも良いことが返ってくる。

神様のご褒美とか罰とかというようなものではなく、そういうシステムなのだとシンプルに考えてください。

カルマを解消するには、2つ方法があるそうです。
一つは、自分のした行為をそのまま受けること。
よく『バガヴァッド・ギーター』のクラスで先生がおっしゃる例えを使わせていただくなら、

「隣のxxさんにムカッと来たので殴った。
だから次は自分が誰かに殴られることになった。」

まあそういうことです。(笑)

しかし、例えば殺人を犯すとか、かなり重い罪になると、そのカルマは来世に持ち越されるのだそうです。

それゆえ、本多信明先生の著書『インド占星術入門』によると、過去のカルマには2種類あると説明されてます。

・サンチッタ・カルマ:
 過去世において行った行為の結果が蓄積されたすべてのカルマ
・プララブダ・カルマ:
 サンチッタ・カルマの一部で、現在の生で経験するカルマ

カルマを解消する方法として、もう一つの方法は、主の御名を唱え、至上主に奉仕して、お願いすることだそうです。
この方法を取ると、必ずしも自分でカルマの反動を受けなくても良いのだそうです。
(この辺りになると、宗教実践の話になりますので、あまり詳しくは述べませんが、苦行や供儀などを重ねると、自分の行為によるカルマは消すことができるし、光の領域までは行くことが可能だが、それ以上の「精神界」へ行きたいとなると、行為以前の心の動き(実際には殴らなかったけど、憎しみは抱いた等。「バーサナー」と呼ばれる)を浄化しなくては、行くことができない。その方法が主への献身奉仕なのだということです。)

いずれにしても、実際の現実化/物質化にあたっては、この2つの要素(その人(魂/霊)の希望/意志=潜在レベルからの本当の意志(True will)、過去のカルマ)を考慮して、結果が算出されると考えたら良いのではないかと思います。

輪廻転生について考えてみましょう。

世界の殆どの地域では、細かい部分では相違していても、だいたい生まれ変わりの思想があります。

ないのは、多分キリスト教文化圏くらいで、世界的に見ると、欧米だけがちょっと特殊だったと言ってもいいくらいです。

しかし近年では、西洋でもぼちぼち生まれ変わりの思想を持つ人が多くなっているようです。

西洋のニューエイジ系の人たちの言う生まれ変わりでは、人間は人間にしか生まれ変わらないとされますが、インドを始めとして東洋の多くの国では、過去の行い次第では、動物にも生まれ変わる可能性があるとされます。

日本で現在、スピリチュアル系の人たちが一般的に受け容れている考え方は欧米のニューエイジ系の転生観だと思います。

すなわち、この現実世界は「学校」であり、我々はそれぞれに課題/使命を持って生まれてきている。
それをこなして、レベルアップしていき、最終的にはニルヴァーナ(多くの場合は光との合一)を目指して進んでいく。
転生と転生の間には、あの世で反省したりレクチャーを受けたりして、次の課題や使命を自ら選ぶ。

だいたいこんな感じでしょうか。

しかし、この考え方には、納得できない人がいっぱいいると思います。

いくら学びの為といっても、あまりといえばあまりに苛酷な環境に生まれている人がたくさん存在し、いくらなんでもそんなものを自ら選ぶとはとても考えられない。そこで何か魂として、レベルアップできる余地は本当にあるのだろうか?
そんな例を、私も直接的、間接的に色々と見聞きしてきたからです。

村上春樹氏の翻訳で日本でも出版されている『心臓を貫かれて(原題:Shot in the heart)』という本などを読めば、それはより分かっていただけると思います。

前回書いたように、宇宙というのは非常にサクッとしたシンプルなシステムです。「我々がこう考えたら(あるいは感じたら、反応したら)、次の瞬間にはその思考と諸条件が計算されて、自動的に何らかの結果が起こる」というようなイメージの方が近いと思います。

インドでは、輪廻転生は基本的に、「死ぬ時の意識に応じて、生命体は次の肉体を獲得する」とされます。

「あなたが望んだ通りのことがもたらされる=あなたが死ぬ時、思うこと、心にあることの方へと動く。」

この方が、宇宙のシステムとして、やはりぴったり来ます。

よく言われるのは、今男性に生まれている人は、その前の世では女性だったということです。
死ぬ時に、配偶者のことを思いながら死んだから、女性の肉体を得たのだ、ということです。(逆に女性の場合も同じです)

肉ばかりガツガツ食べたいと望んでいて、実際にもずっとそのように行動している人は、次は肉食獣に生まれ変わる可能性もある、などと言われたりもします。
人間であっても、アジア人よりは肉食の西洋人に生まれるのかもしれません。

もう輪廻の輪から解脱したい、と常に至上主に思いを馳せている人は、死んだら至上主のもとへと行けるかもしれません。

しかし、別にそんな抹香くさいことはどうでもいいのよ、今の人生が私は幸せなの。家族にも夫にも恵まれて、自分の才能を活かした仕事をできて。次もこんな人生がいいわ。と思っている人は、勿論、また物質界に生まれ変わることになります。
(但し、その人のそれまでの人生の行い次第では、今の人生と同じくらいに恵まれたものになるとは限りませんが)

救いがたく悲惨な環境に生まれて、両親に虐待された末、幼くして死に至らしめられることになった、などという場合、その子はあまりに気の毒ではありますが、ヒンドゥー的には、何か過去世にあったのだ、でもこれでカルマが解消されたのだから、次の人生はもっと幸せになれるだろう、というように考えるようです。

本当にそうなのかは分かりませんが、でもそう考えた方が、単に世のは不平等で、いつ突発的な不幸が降ってきて地獄のような状況に陥るかもしれないなどと考えるよりも、救いがあるような気もします。

兎も角。

そのように考えて周りの人を見てみると、転生の回数が多いと思われる人は、全体的にちょっと大変な人生の人が多い一方で、その分色々な救いの手や幸運にも恵まれているように思えます。

色々と間違いも犯したかもしれないけれど、良いこともたくさんして、ご縁のある人もたくさんいたのだろうな、と感じられます。

でも、こういう人たちは、一般的な物質的「引き寄せ」があまり上手くいかないことが多く、お金に苦労しがちだったりすることも、わりに見られます。

何度も転生して魂自体がある程度「老成」してきている分、物質面にあまりストレートに欲求が湧かないというのもあるのですが、受けるべきカルマの反動も色々あるからなのではないかと思います。

逆に、比較的容易に物質的「引き寄せ」が出来る人の多くは、「若い」魂であるように感じられます。

こういった人たちは、「若い」分、仕事や趣味といった現実的な楽しみをストレートにエンジョイでき、物質面でもストレートに欲しいものは欲しいと思える傾向があるので、当然ながら欲しいと思ったものを「引き寄せ」られますし、それを邪魔するカルマも少ないので、より現実化/物質化しやすいのだと思います。

現代の日本でスピリチュアルなどに興味を持つ人というのは、その多くは、「老成」ゆえに現実社会で苦労している人たちなのではないかと思います。

ではその苦労、報われる可能性はあるのでしょうか?えへへ…

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ごちゃごちゃとややこしいヒンドゥーやら神秘主義思想における宇宙観について書いてきていますが。

その理由は、これが現代のニューエイジやスピリチュアルなどで言われている「宇宙の法則」だの「引き寄せの法則」だのといったことや、私が提供しているリコネクションのメカニズムなどとも、きちんとリンクしていて、説明がなされ得ることが分かったからです。

以前、インドから来日されたISKCONのお坊様のご法話通訳をした際、スワミがおっしゃっていたのが、

「この宇宙は、主クリシュナが作りたもうた完璧なシステムである。」

そう。「システム」なんですね。

そして、よく言われる思考の現実化や「引き寄せの法則」といったものは、正しいと思います。

創造主(クリシュナ)は、個別魂たる生命体(人間も動物も神々も)が望むことは、全て叶えてあげたいと望んでいるわけですから、基本的に、思ったこと、思考したことは現実化/物質化することになっています。

それが宇宙のシステムであり、メカニズムです。

しかし同時によく言われることですが、現実化/物質化される思考や望みとは、人が潜在レベルから真に望んでいることでないと、原則として現実化/物質化されません。

この「人が潜在レベルから真に望んでいること」というのがなかなか厄介です。

人間は生きて、起きている間、様々なレベルで多くの思考を行います。
しかし普通に生きていると、何気なく「自分はこれが欲しい」と思っているものって、実際は多くの場合、「本当の本音」とは微妙にずれていることが殆どです。

以前にももしかすると書いたことがあるかもしれませんが、タロット鑑定をしていると、よくお客様で、

「結婚したいけど、出会いがないんです。婚活もしているのですが、なかなか縁付かない。」

という方がいます。

しかし何故結婚したいのか、よくよく話を聞いていると、結局、

「今のままの収入だと、将来が不安である。それに歳を取って一人だと、寂しいし、やはりこれも不安だ。」

というのが理由だったりします。

要するに、将来に渡る収入面と、孤独になることの不安を解消したいということですよね。
とりあえずその手段としてその人が思いついたのが「結婚」というだけの話で、必ずしもそれは結婚じゃなくても良い訳です。

そりゃ、男性も女性も、人生が分かち合えるパートナーがいれば、それは楽しいだろうと思っている人が殆どだと思いますし、上記の方も勿論、結婚したくない訳でもないと思います。

ただ、このご相談に来られた時点では、それよりも「不安を解消したい」が第一のお悩みであり、それを自ら認識しないと、自分が本当に望む結果が得られないのは当然です。

こんな卑近な例からも分かるとおり、自分の本音を自分で明確に認識すること自体が、実は案外と難しいのです。

この「本当の本音」を、20世紀最大の魔術師、アレイスター・クロウリーは「True Will(真の意志)」と言いました。

クロウリーはあまりに誤解の多い人物でありますが、『法の書』の有名な一文、

「Do what thou wilt shall be the whole of the Law.
(汝の意志するところを行なえ。これこそ〈法〉のすべてとならん)」

という文句は、好き勝手に欲望の赴くまま、行動して良いなどということを意味してはいません。

「True Will(真の意志)」について、Wikipediaにきれいにまとめられていたので、引用してみましょう。

「これはある時には個人の人生における大いなる運命または目的と定義され、またある時には、その時々で〈自然〉と完全に調和してはたらく行為の進路と定義される。」
「〈真の意志〉は互いに衝突することなく運行している星々のそれぞれの固有の運動と軌道にたとえられる。」
「自分の〈真の意志〉と合致している〈セレマイト〉とは、偽りの欲望や葛藤や習慣を捨て去るか回避して、神性とのつながりに触れているものである。」
「理論的にはこの段階に至れば、〈セレマイト〉は、下り坂を流れ落ちる川のように、妨害もなく「結果を切望」することもなく、〈自然〉に沿って行動することになる。」

この段階に至る為の修行や方法が、O.T.O.では(あるいはその他魔術結社や、現在では自己啓発セミナーなどでも)提示されるわけでしょうが、当然のことながら、自分の心(思考、感情)や感覚、身体にがっつり向き合ってコミットして修行しないと、この境地には至ることができないわけですから、安易に把握できるものでないことは、お分かりいただけると思います。

では、仮にその「人が潜在レベルから真に望んでいること」あるいは「True Will(真の意志)」が明確になったとして、それでも望むことが簡単に実現しないということがあります。

それが、もう一つ、宇宙のメカニズムの重要なキーとなるカルマの法則です。

次回はもう少しこれについて述べたいと思います。

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松村潔氏の『エーテル体に目覚める本』に、エリアーデの著作からの引用がありました。

「前-仏教(ボン教)のチベットの伝承によれば、もと「地」と「天」とを結んでいた網が存在した。神々は、人間に逢うためにこの綱を伝わって「天」から降りてきた。人間の堕罪と死の到来の後、「天」と「地」の繋がりは遮断された。(中略)網が切り落とされて以来、臨終のときに魂のみが「天」へ昇ることができ、肉体は「地」に残るのである。…(略)」(p223 エリアーデ著作中6『悪魔と両性具有』せりか書房)

これについて松村氏は、このように述べています。

「網の切断は、そもそも人間が主体性を主張して 神に反抗したところから始まったと言われている。人の主体性を主張するには、すべての関連性を生み出す網を切り離さなくてはならなかった。支配的な力と関係なくなれば、主体的な自由が手に入ると思ったのだ。」
(p. 64, 松村潔(2011)『エーテル体に目覚める本』, アールズ出版)

エーリッヒ・フロムは著書『自由からの逃走』でこのように記しています。

「人間と自由との根本的な関係について、とくに雄弁に語っているのは、人間の楽園追放という聖書の神話である。
神話も人類の歴史のはじまりは、選択という行為にあるといっている。しかし、神話はこの最初の自由な行為が、どんなに罪深いものであり、またその結果生ずる苦悩がどのようなものであるかを特に強調する。(中略)
しかし人間の立場からは、これは人間の自由のはじまりである。」
(P. 43, E. フロム(1941)『自由からの逃走』, 日高六郎(訳)(1951), 東京創元社)

人間はやはり、「神(神聖なるもの)」に反抗したのでしょうか?

ルドルフ・シュタイナーの霊視による宇宙及び地球、人間の生成過程についての考察を簡単に見てみましょう。

簡単にといっても、そう簡単にまとめることは難しいので、詳しくは元の『神秘学概論』を読んでいただきたいところですが、とりあえず乱暴にかいつまんでみたいと思います。

シュタイナーは、人間は、当初は所謂「霊」のみの状態から、徐々に「地」的要素を取り込んでいったのだとしており、本書ではその「進化」(「生命の樹」的に言うなら下降)のプロセスが説明されています。

「素材のすべては霊的なものから生じた。それ以前には、霊的なものだけが存在していた。霊的に観察すると、霊的なものがどのような経過を辿って、部分的に、いわば素材にまで濃縮されたのかがわかる。あたかも水の入った容器を冷却化して、その中に人工的に氷塊を作り出す時のような経過が、―高次の段階において― 生じたのである。」
(p.144, ルドルフ・シュタイナー(1910)『神秘学概論』, 高橋巌(訳)(1998), 筑摩書房)

人間が地球(ヒンドゥーの「ブロカ」、生命の樹で言えば「マルクト」)に受肉するまでの過程を、シュタイナーは「土星紀」「太陽紀」「月紀」「地球紀」という段階に分けて説明しています。
(生命の樹でも、基本的に一番上の3つのセフィラによる至高の三角形(トライアド)から中央のライン(ティファレト:太陽→イェソド:月→マルクト:地球)を下降していきますね。)

ちなみに「土星紀」「太陽紀」といっても、勿論、現在我々が認識しているところの惑星としての土星や太陽に、物理的に居住していた訳ではありませんので、念の為。

「土星紀」の頃の人間とは、個別魂としての「自我」は存在しており、それとアストラル体が結びついただけの存在であり、元素でいえば「火」的要素のみといった感じの存在だったようです。
「自我」があるとはいえ、「これが私だ」という対外部的な認識は勿論ありません。

「太陽紀」に入ると、エーテル体が人間の体に浸透し始めます。そしてアストラル体も流し込まれる。

「土星紀いおける人間存在の肉体は、熱形体であった。太陽紀には、それがガスもしくは「空気」状にまで濃縮された。月紀になると、アストラル成分がそこに流れ込むので、ある時期に肉体成分は、更に濃縮度を強め、現在の液体に比較できるような状態にまで達する。」
「この状態を「水」とよぶことができる。けれどもこの言葉は、現在のわれわれの水を意味しているのではなく、なんらかの流動的な存在形態を意味している。」
(p.195, ルドルフ・シュタイナー(1910)『神秘学概論』, 高橋巌(訳)(1998), 筑摩書房)

「地球紀」に入ると、人間はまだアストラル形態をとり続けていたものの、一方で地球の濃縮過程は続き、

「「地」と呼ばれる個体の部分が「水」の要素に付け加わる。」
(p.236, ルドルフ・シュタイナー(1910)『神秘学概論』, 高橋巌(訳)(1998), 筑摩書房)

とはいうものの、この進化の過程の間にはずっと、高次の霊的存在から人間への働きかけが常にあり、人間も自分はそのような存在に属していると感じていました。

しかし、進化のプロセスの中で、規則的な進化についていけなかった存在たちからの干渉が入りました。
これをシュタイナーは「ルツィフェル的な霊たち」と呼びます。

「ルツィフェル的な霊たちは、人間の意識の中に自由な活動を喚び起こしたが、それと同時に誤謬と悪の可能性をも人間に与えたのである。」
「高次の霊的影響から逸脱して、欲望と情念のおもむくままに生きるようになったので、そこから病気の可能性が生じた。」
「ルツィフェルの影響の重要な結果は、それ以後、人間が地上生活をもはや肉体から離れた生き方の継続であると感じられなくなった点にある。」
(p.259, ルドルフ・シュタイナー(1910)『神秘学概論』, 高橋巌(訳)(1998), 筑摩書房)

これにより、地球における感覚器官による知覚にのみ頼ることになった結果として、「死」の概念が生まれることになります。

現在でも人間は、寝ている間に肉体を離れてアストラルトラベルをしてると言いますが、多くの場合、覚醒するとその間の記憶は忘れてしまうのが普通です。

人間は当初、「睡眠」に似た状態にある間、「霊界」に還っており、目覚めてもその記憶を保持していたのだそうです。
所謂「死」が発生しても、転生と転生の間の記憶は保持され、現在で言うところの「覚醒」状態の方が幻なのだと知覚していたのだといいます。

その知覚力があるなら、肉体が滅びることなど全く意味のないことであった筈なのですが、それがなくなれば、確かに「肉体の死」は恐れるべきものとなるでしょう。

「この影響を受けるまでの人間の魂は高次の霊的な存在たちの意図にしたがって仕事も生活も行ってきた。何をすべきかは、すべてあらかじめ定められていた。人間意識そのものの進化の度合いに応じて、あらかじめ定められた計画のもとに、将来どのような事柄が生じてくるかを予見することもできた。けれども、高次の霊的な存在たちの啓示が、地上の知覚内容のヴェールによって覆われ、太陽霊たちの力がそれによって隠されてしまったとき、この予見能力も消えて、未来が不確かなものになった。恐怖の感情がそれと共に人間の心に植え付けられた。恐怖は、誤謬の直接の結果として生じた。」
(p.264, ルドルフ・シュタイナー(1910)『神秘学概論』, 高橋巌(訳)(1998), 筑摩書房)

聖書でいうところの楽園からの追放は、ルツィフェル的な霊たちの影響力が及んで、人間が感覚世界に埋没するプロセスですね。

そして、「地上の知覚内容のヴェール」こそが、ヒンドゥーで言うところの「マーヤー」です。

シュタイナーの言うところの現代の文明以前の世界、「レムリア期」「アトランティス期」における秘儀参入者たちは、ルツィフェル的な霊たちの影響力が及ぶ以前の能力を保持していたようですが、そうこうするうちにアトランティスも滅びます。

その末裔たちは、まず最初、古代のインドに移動したのだそうで、その頃のインドに居住した末裔たちは、まだアトランティス期の記憶を失っておらず、人々の大半が、「この世こそ幻想であり、霊界/超感覚的世界こそが真の世界である」として世界を見ていたといいます。
現代でも、インドは多少その感がありますが。

ただそれも、ペルシア文化、メソポタミア、後バビロニア(カルデア)時代には、ほぼ消えて、このあたりの文明においては、人々の関心は専ら感覚世界に行っており、ギリシャ、ローマ時代では「光の世界」に入り、「夜の暗闇」は消え去ったと言って良さそうです。

どうも、人間が神に反抗したからとか、あるいは禁じられた知恵の実を食べたとかいった直接的に原因となる出来事があって、それによって物語的に劇的にブチッと繋がりが切られて一直線に地球にまで堕ちたのだというよりも、徐々に「地」の固定的世界へと下降するプロセスがあった、という感が強いように思います。

と、ここまで書いて来て、ふと思ったのですが、やはり人間は、元々創造主(クリシュナ)の元にいたのかもしれませんね。
その時には、「精神界」にあたる世界が一つあっただけ。

しかし、最初から素晴らしい世界にいたので、ふと欲が出た人間がいた。そういう人が、結構いっぱい出てきた。

それでクリシュナは「ではあなたたちの願いを叶えましょう」と物質界を作った。

その物質界には一定のメカニズムがあり、そこでは、物質界の最高位の次元、ブラフマ・ローカから段階的に堕ちてきくというプロセスを踏まないと、「自分が神の僕である」とか、「上の次元と段階的に繋がっている」とかいう記憶を削除して、自らの楽しむ為の自由意志を獲得できなかったのかもしれません。

しかしこの物質界にはもう一つ、そう望むなら再び昇っていくことのできるメカニズムも用意されていた。

ヒンドゥーではその攻略マニュアルが『ヴェーダ』なのであり、それを宇宙で最初の生物であるブラフマー(梵天)に託したのだといいます。

そのマニュアルに従って、苦労して再び上昇してきた人の中で、「無限の光の領域」に同化してしまった人は、何も苦しみこそないものの、自己認識ができなくなって、また物質界に舞い戻ってしまう。

でも自らの選択として、苦労して再び「精神界」に戻った人々は、もう一度「物質界」に戻ろうとは、ほぼ100%の確立で思わないでしょう。

「創造主はいつでもあなたの願いを叶えたい」ということが不変である以上、もう一度「物質界」に戻りたいと望む人がいれば、たとえ「精神界」にいても、戻っていくことはできる筈です。

だから、メカニズム的に「精神界にいたら絶対に堕ちない」のではなくて、「まずそんなことを望む人はいない」という意味で、「堕ちることはない」のではないかと思いました。

これは私が勝手に考えていることですが、でもそういうことであれば、納得できますね。ひよざえもん やったね

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我々は何処から来て何処に向かうのか?

クリシュナが創造主だとするなら、何故クリシュナは我々を作ったのか?

『バガヴァッド・ギーター』のクラスで色々とお話を聞いていると、

「クリシュナは遊び相手が欲しい」

?????

どうやら、これが理由なのだそうです。(笑)

もう少し詳しく言うなら、

「一緒に遊びたい。」
「無私に尽くしたい。」
「愛を分かち合いたい。」
「だからその相手が欲しい。」

だから、自分の分身なんかいっぱいいても仕方がないのです。
そんなもの、つまらないでしょう。

我々一人一人は、は創造主に対し、「個別魂」と呼ばれます。
それぞれに自由意志が与えられています。

クリシュナは、自らの意志で互いに無私に尽くし合い、楽しむ相手が欲しいということです。

だから、もしこの世を去って、物質界の高位の惑星も無限の光の領域も超えて、純粋な非物質の領域である「精神界」に行けたとして、何をするのかというと、「クリシュナと遊ぶ」のだそうです。ずっとずっと永遠に、楽しく。

...and they all lived happily ever after.
(そして彼らはみんな、末永く幸せに暮らしました。)

そんな世界が本当にあるのだということです。

で、私は本当にそうあって欲しいなあ、なんて思っています。
だって、「宇宙の車輪を永遠にぐるぐる」なんて、やっぱり嫌ですよね~。ひよざえもん がーん

これが一番あり得る最終ゴールだと私が感じているのは、単なる希望的観測なのか、本当に直感なのかは、まだ分からないですが。

実は、『バガヴァッド・ギーター』のクラスに行き始めた最初の頃、「我々が何故物質界にいるのか?」という理由について、

「かつて、私たちは精神界にいたのだが、自分がクリシュナの立場に立ちたい、自分が王様になりたいと考えた。」
「クリシュナは皆の望みを叶えたいと考えているので、その為に物質界を作り、人間が自分が自分の意志で楽しめる世界を作って、我々に与えたのだ。」

というような説明を受けました。

私は、「???????」。

いやだって、「精神界」にいれば二度と物質界に堕ちることはないって教義だったんですよね?
てことは、「精神界」からも、再度堕ちる可能性があるってことなんじゃないですか?
な~んか、根本的なとこで矛盾しているような…汗

…などと思いつつ、なかなかつっこんでいいもんかどうか、考えているうちにある時、インドから偉いお坊様が来日された時、ご法話の通訳をさせていただいたのですが、その時スワミ曰く、

「人間は精神界にいたことはない」

えええっビックリマークひよざえもん びっくり

やっぱりそうやったんかいな。

あ、でも良かった~。やっぱりそうだったのね。えへへ…

でもそうなると、今度は何で物質界に人間が存在するのかという理由が分からなくはなるのですが。

ただ、どういう理由で人間が物質界に生まれ出てきたのかはさておき、「自分は自分の意志で好き勝手に楽しみたい」と、ある時から人間が思い始め、その結果として逆に「神聖なるもの」との繋がりが断たれたというのは、世界中の色々なところでよく言われており、これはどうも有りだと思うのです。

その辺りを、またちょっと、考察してみようかと思います。

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前回の記事からの続きとなりますが。

ISKCONの宇宙観による宇宙の構造においては、

宇宙は純粋な非物質の領域である「精神界」
我々の物質宇宙「物質界」
精神界と物質界を隔てる光の領域「ブラーマジョーティー」

と、大きく3つにカテゴライズできます。

では、ISKCONの宇宙観では、どのようにして宇宙が創造されるとされているのか?

クリシュナやヴィシュヌのいる純粋な非物質の領域=「精神界」は、物質界とは全く異質の領域である為、クリシュナは直接的に物質界にアプローチすることはできません。

それゆえ、拡張体や化身(アヴァターラ)を使ってアプローチします。
ヴィシュヌ神も、クリシュナの拡張体だと言われます。

拡張体の拡張体の拡張体…となるにつれ、「非物質度」は下降し、物質次元に近づくと思えばいいのではないかと思います。

我々にも勿論、主クリシュナの性質が宿っていますが、拡張して拡張して薄まって薄まって…と、ここまで来ると残念ながら、その性質の数はかなり少な目な感じになっています。

前回、神との関係について、「全く分離した存在ではなく、かといって「同一」でもない。」と書いたのはこれが理由です。

我々は確かに創造主の性質は持っています。
しかし、創造主とイコールではない。そういうこということです。

各生物・無生物に入っている創造主の性質とは、後に出てくる「クシーロダカシャーイー・ヴィシュヌ」のことです。

もう一度、宇宙の模式図を取り出してみます。

image

この図の右側にこちゃこちゃと小さい文字で何やら書かれていますが、実はこれがどのように宇宙が出来たのかという説明なのです。

これをかいつまんで説明しましょう。

クリシュナは創造の源のエネルギーであり、完全体です。
64の性質を持つとされています。
この宇宙の全ては、クリシュナの性質の反映です。

クリシュナは「精神界」の中心部に存在します。

ヴィシュヌの本体があるのは、精神界の中心より一つ外側の赤い領域、「ヴァインタ:不安がまったくないところ」と書かれた領域です。

シヴァの本体があるのも、その外側の「カイラース」という領域です。

ここまでが精神界。

物質界を創造するにあたり、クリシュナは3つの拡張体となりました。
マハー・ヴィシュヌ、ガルボダカシャーイー・ヴィシュヌ、クシーロダカシャーイー・ヴィシュヌです。

マハーヴィシュヌは、「カラナの海(原因の海)」と書かれた場所に横たわりました。マハーヴィシュヌの一呼吸ごとに、その毛穴から、物質宇宙が発散されます。

この図では、宇宙の構造はシンプルに三層構造で書かれていますが、実際には、物質宇宙は一つではなく、「精神界」の周りというか下というかに、無数に存在する訳です。

いわゆる「パラレル宇宙」も嘘ではないようです。

ガルボダカシャーイー・ヴィシュヌは、その自分の毛穴から発散された一つ一つの物質宇宙の中に入ります。

前回ちらりと紹介した、竜王アナンタの上に寝そべるヴィシュヌ神ってのはこのガルボダカシャーイー・ヴィシュヌのことだったのですね。

で、ガルボダカシャーイー・ヴィシュヌが「よっしゃ、創造すっか」と思ったら、臍から蓮の花が伸びてきて、そこからブラフマーが生まれた、と。

ブラフマーは「宇宙で最初の生物」だとされています。
実際に物質宇宙に直接タッチして、管理監督しているのは、ブラフマー神のようです。(「創造主」というよりは、「造物主」ですね)

所謂ヒンドゥーの創世神話って、「無限の光の領域=ブラーマジョーティー」よりも下の、物質宇宙のみについて、説明していたのだということですよね。

とはいうものの、ユダヤ神秘主義、カバラの生命の樹の模式図でも、それは同じでした。
そして光の領域の向こうにあるのは「無」。

全部を全部、調べたわけではありませんが、世界の神秘主義思想や宗教では、私の知る限り全て、取り扱っているのは物質宇宙のみ、そして「無限の光」か「無」が原初の状態とされているようです。

勿論、カバラにおける「アイン」「アイン・ソフ」「アイン・ソフ・アウル」及び最初の3つのセフィラは、一般的な人間の感覚で知覚不可能な物質以前の状態、つまり粒子化という意味での物質化が行われる前の、エネルギーのみの状態を表してはいます。

しかし更に、無限の光の領域を超えた世界について想定したものに出会ったのは、実はこのヒンドゥー(ISKCON)の教えが初めてでした。

それゆえ、なかなか衝撃的だったのです。

こう考えると、『神との対話』の「神」も、位置付け的にはガルボダカシャーイー・ヴィシュヌ、あるいはブラフマーと同じような立ち位置なのかなと思います。

古代ギリシャでは、被創造物である「造物主」としての神を「デミウルゴス」と称しました。
ゼウスも言うなればデミウルゴスです。

但し、例えばブラフマー神は、自分が被創造物であるという自覚がありますが、デミウルゴスにはなく、自分が至上主だと思っているのですが…。

では、我々は、どのようにして、どんな理由でこの宇宙に誕生しているのでしょう?

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少し前にも書きましたが、1年半ほど前、たまたま友人にバガヴァッド・ギーターのクラスに誘われて、「そういえば昔読んだな。どんなんやったっけ」と、参加してみることにしました。

行ってみてわかったのですが、そのクラスを主催していらっしゃるのは、ISKCON(INTERNATIONAL SOCIETY FOR KRISHNA CONSCIOUSNESS)という団体の僧侶の方でした。

ISKCONとは、ゴウディヤ・ヴァイシュナヴァ(ベンガル・ヴィシュヌ派)のバクティシッダンタ・サラスヴァティに師事したインドの宗教家、A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダという人が西洋で「クリシュナ意識」運動を立ち上げ、創設した団体だそうです。

といっても、全然意味が分からんでしょう。
誰やねん、それ?…ですよね。えへへ…

でも現在40代後半以上の人なら、1960年代のヒッピームーヴメントの頃、ビートルズのメンバー、特にジョージ・ハリスンがシタール弾いて、「ハレクリシュナ~音符」とか歌ってたなあ、なんてことを、何となく記憶している人も多いのではないかと思います。

その「ハレクリシュナ」の団体です。(笑)

「クリシュナ意識国際協会」と訳されており、ものすご~~く大雑把に説明するなら、「クリシュナに意識を向けよう」ということを提唱している団体です。

ヒンドゥー教は日本の神道のように多神教で、様々な神様がいますが、ここでは、至高神はクリシュナであるという教えです。

……と聞くと、多少ヒンドゥーの神話などに詳しい人なら「え?」と思うことでしょう。クリシュナって、ヴィシュヌ神の化身じゃないの?と。

ヒンドゥーで一般的によく聞くのは、「三神一体論(トリムルティ)」という概念で、その三大神とは、ブラフマー神(創造)、ヴィシュヌ神(維持)、シヴァ神(破壊)です。

創世神話では、竜王アナンタの上に横になっていたヴィシュヌの臍から蓮の花が伸びてきて、そこからブラフマーが生まれ、ブラフマーの額からシヴァが生まれたなどと言われます。

あるいは、ブラフマーはヴィシュヌ、あるいはシヴァの命によって創造行為を行ったに過ぎないとか何とか。

ヴィシュヌは何度か化身(アヴァターラ)として地上に降り立ったとされており、クリシュナはその8番目の化身であると言われています。

が、このあたりの伝承の相違などに関しては、浅学の私では、さすがにとても説明することはできません。

それにインドって、地方によっては言葉も宗教も違う、殆ど外国と同様なのだそうで、宗教とそれにまつわる神話や伝承なども、かなり多岐に渡るようです。

従って、ISKCONではこれらについて、一応説明はなされているものの、それが他の宗派と比べて正しいのかどうかといったことは、議論してもあまり意味がないと思います。

信仰、あるいは何処に真理があると感じるのかは、その人次第だからです。
前にも書きましたが、その人が真理であると感じることが、その人にっての真理でありリアリティです。

だもんで。
今後、もう少し説明も加えますが、とりあえず今は、「ISKCONではこう言ってるんだな」と思って読んでください。

そんな訳でクリシュナ。

まずはISKCONでシェアしていただいた宇宙の構造を示した模式図を見てみましょう。

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前回までの記事で書いていた「無限の光の領域」は、この図では真ん中あたりの白いところ、「ブラーマジョーティー(クリシュナの光)」と書かれているところです。

そこより下が、我々のいる物質宇宙です。

物質宇宙を細かく見てみると、地球の上には7層の次元があり、下にも7層の次元があります。

ローマやギリシャ、日本の神道などであまた存在する「神々」は、この地球より高位の次元のあちこちにいるのだと考えると分かりやすいでしょう。

高位の次元の惑星に住む存在は、勿論人間よりも「物質度」が低く、人間よりも時間や重力の制約を受けない分、超人的な行為をなすことが可能で、それゆえ人間から見ると正に「神!」に思えますが、これらの存在も、「創造されし者」であることには変わりありません。

現代のニューエイジなどで、宇宙人や宇宙からの高次元エンティティからのメッセージをチャネリングするという人がいますが、(その人の言っていることが本当なのであれば)このようなメッセージの配信元は、いわばこれらの「神々」ということだと思います。

ところが、見ての通り、その「無限の光の領域」の上にも物質宇宙と同じくらい、あるいはそれ以上に大きな領域があるでしょう。
「無限の光の領域」の上にあるのは、「無」ではないのですよね。

これが、純粋な非物質の世界、「Spiritual World」と呼ばれる領域です。

日本語には「精神界」と訳されており、残念ながらあまり良い訳語であるとは思えませんが、他にどういう語を充てるのかというのも、なかなか難しい問題です。

クリシュナ意識では、最終ゴールを「無限の光の領域」ではなく、「純粋な非物質の世界」に設定しています。

その「純粋な非物質の世界」に、全ての創造エネルギーの源であるクリシュナ神が存在するのだそうです。

ここまで到達すれば、もう二度とその下に落ちたりすることはなく、「宇宙の車輪ぐるぐる」から脱却できる。これが本当の「ニルヴァーナ」あるいは「モクシャ」なのだと。

しかもこの「純粋な非物質の世界」は、絶対でも相対でもない、一元の領域だといいます。

つまり、「私」と「あなた」はいるのだけれど、全く分離した存在ではなく、かといって「同一」でもない。

しかも、クリシュナは「The Supreme Personality of Godhead=最高人格主神」と称されます。人間にあるもんは、当然創造主にもある。従って、クリシュナ神にも人格はあるんだぞと。

さてさて。
ややこしいですねえ。(笑)

神は「無限の光」で、私たちはいわばその分身、そして最後は「無限の光の領域」と同化するのだという方がよっぽど受け容れやすい考え方だと思います。

しかしもう少し読み進めていただくと、多分こっちの方が、最高到達地点としてはありかもだぞ、と思われる人もいるのではないかと思います。

多分。汗々

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ニール・ドナルド・ウォルシュ氏による『神との対話』という3部作の著作があります。
有名な本なので、読んだことのある方も多いでしょう。

この本の中では、「神」が何故私たちがこの世に生まれ出たのか、そしてどこに行くべきなのかを語っています。

これらについて、少々引用してみましょう。

『まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。
(中略)
その、「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」―あるのはそれだけで、ほかには何もないから。
(中略)
さて、「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは十分ではなかった。なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。
(中略)
そこで、「存在のすべて」は自分を分割した。栄光の一瞬に、「これであるもの」と、「あれであるもの」とになった。はじめて、「これ」と「あれ」が分かれた。しかも、どちらも同時に存在している。また、「どちらでもないもの」も存在している。
こうして、突然に三つの要素が生まれた。』
(p.49-51, N. D. ウォルシュ(1995)『神との対話』, 吉田利子(訳)(1997),  サンマーク出版 )

ここで「神」が語っている「三つの要素」は、前回の記事での引用文中にあった、創造の元型的萌芽(「1」が「3」になるプロセス)と同様のものだと考えていいでしょう。

要するに「神」は自らの素晴らしさを体験する為に、二元相対の世界を創り出した。
「あなた」がいないと、「私」がいることも分からない、「悪」があるから、「善」の素晴らしさを体験できる、「冷たい」を経験するから、「温かさ」も体験できるという訳です。

そして、人間の行くべき道筋について、こう説明します。

『…集合的意識に身をゆだねれば、たちまち全的な受容、全的な平和、全的な認識、全的な愛に包まれる。
(中略)
そのとき、あなたは「ひとつであるもの」と一体になり、べつのものを存在させたいと考えるまでは、あなた自身と「これまで存在したすべて」のほかは何も存在しなくなる。
(中略)
この一体感を、無限という時の無い時間を経験したあと、あなたはこの経験をやめる。なぜなら、「ひとつであるもの」以外の何かが存在しなければ、「ひとつであるもの」を「ひとつ」として経験できないからだ。これを理解したとき、あなたはふたたび、分離、分裂という考えを創造する。こうして、あなたは宇宙の車輪の上を旅し、前進しつづけ、回転しつづける。いつまでも、いついつまでも、永遠に。』
(p.163-164, N. D. ウォルシュ(1998)『神との対話③』, 吉田利子(訳)(1999), サンマーク出版 )

「ええ~ビックリマーク汗」と思いませんでした?

私は思いました。
せっかくゴールに着いたと思ったら、またゼロからやり直し?

この「神」は、これを「宇宙の車輪」と呼びました。
正にタロットの「運命の輪」ですね。
これを永遠に回り続けるだけなんて、考えただけでもうんざりしないでしょうか?



とはいえ、何故生まれてきたのかという理由とは整合性が取れており、筋が通っています。
確かに再び「存在のすべて」(=Absolute All)と同化してしまうと、そうこうするうちに、また「あれ、で、俺って誰だっけ?」なんて思い始め、同じことを繰り返すというのは、道理です。

そして「神」は、これを永遠に払拭することのできない「神聖なるジレンマ」と言います。

おいおい汗

で、この著者であるウォルシュ氏も、「そうだとしても、やっぱり気が重いですね。「休み」はないんですか?ニルヴァーナにずっといるわけにはいかないんでしょうか?」と、問います。

「神」は、ずっといるもいないも、それすらも自由意志だから強制ではないと言いますが、しかしどう考えたって、これだと結局はまた繰り返しに入りますよね。えへへ…

最後にどうにも今一つ、納得できない私が残ります。
で、次回に続きます。

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宇宙の構造といっても、勿論、物理学的な宇宙論ではない。(残念ながら、私は物理学的に説明できるだけの十分な科学知識は持ち合わせてませんし。えへへ…

宇宙というのはどのようにできたのか。

我々はどこから来たのか。

死んだら何処へ行くのか。

そんなことを、思想や哲学、宗教から見てみましょうという訳です。

一般的にニューエイジ的な世界観/宇宙観では、我々が浄化され、知覚力や認識力が拡大し、霊的レベルが上がって、最終的に解脱して物質宇宙/二元的相対的世界を超越すると(ヒンドゥーでは「解放」「モクシャ」などと言われますが)、一元の謂わば光だけの絶対的領域が存在し、そこに合一すると言われます。

また、そもそも我々がこの物質世界に来たのも、そこからなのだと。

それを模式化したものとしては、ユダヤ教神秘主義=カバラの「生命の樹」が有名なので、少しなりとニューエイジやスピリチュアルなどに興味のある方は、ご存知だと思います。



生命の樹が生じる前の、存在以前の世界には、「0:アイン(無)」があり、そこから「00:アイン・ソフ(無限)」、そして「000:アイン・ソフ・アウル(無限光)」が生じる。(神も「光あれ」と言いました)

そこから物質宇宙がどのように発生したのか。

これに関しては、Lon Milo Duquette著 『Angels, Demons & Gods of the New Millennium』にきれいにまとめられていたので、引用してみましょう。

「生命の樹は、エネルギーと意識の普遍的な力学が投影された10個の光球と22本の小径(パス)による線形の図式である。
(中略)
生命の樹の10個全てのセフィラ(あるいは光球)は、実際は一番上の(第一の)セフィラ、ケテルの側面あるいは相に過ぎない。ケテルは存在の全体性、至高のモナドを表している。
しかしこの「1」の概念でさえ、存在以前の「0」の純化された完全性の上のシミのようなものなのである。
(中略)
単なる反射作用によって、「2」が創造される。(「1」はそれ自身の意識となり、その反映にもなった)「1」と「2」の間に差異が存在するのを知ると、即座に第三の条件が作られる。存在そのものを表すこの三つ組(トリニティ)は、まだ抽象概念のままで、可能性の状態にある。にもかかわらず、第一のパターンは「1」が「3」になるプロセスによって確立される。この元型的萌芽は、創造の全シナリオ(意識/光/霊が下降し、物質となるプロセス)に生命を吹き込む為の連鎖反応を発動させる。」(拙訳)

この後、連鎖反応的に第10セフィラまで下降し、我々が通常存在しているのは、この第10セフィラ、マルクトだということになる。

西洋魔術の世界でも、世界の神秘主義、宗教などでも、その多くは、言うならば、様々な側面においてこの「生命の樹」的なものを上昇して最上部に到達することが目的となっており、それぞれに様々な修行方法が提唱されているというわけです。

どの方法を取るのかはその人次第ということになりますが、ともかくこれが本当の意味での「上昇」=アセンションであるということになるでしょう。

この「無」及び「無限の光」の領域について、セドナの数秘術師ノボ・カリプソは「Absolute All」とも称していました。

我々は「無」及び「無限の光」、あるいは「Absolute All」、つまり「神」の一部であり、また同じものであり、最終的にはそこに還り、再び溶け込むべき者である。

これは多くの人にとって、非常に納得しやすい、分かりやすい思想的モデルであると思います。


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これからぼちぼちと書いていく宇宙観や思想は、とりあえず私の主観的感覚で、「まあこれが一番、あり得そうだな」と感じていることです。

何か根拠があるわけではない。でも今の私には一番納得がいく。
暫定一位ということです。

何故「暫定」か。

それは私が高校生の時、学んだ諺、

「To err is human, to forgive divine.(過つは人の性、赦すは神の心)」

これがしっかりと頭に焼き付いているから。

人は必ずや誤った思考や判断を行う可能性があります。
だから、常に客観性を持って修正の余地を維持しておくべきである、というのが私の信念です。

以前にも書いたことがあるかもしれませんが、子供の頃から、私はかなり怖がりでした。

何に対してって、それは勿論、お化けオバケ(笑)

一度も幽霊とか見たことないのに。

一方で、こういったものを全く怖がらない人もいます。

人によっては、元々「見える」人なので、それを当然と思って育ち、それゆえに怖がらないという人もいますし、何かしら目に見えない世界を否定する訳ではないものの、かといって特に怖いとも思わない、という人もいます。

そして、そんなものは見たこともないし、科学的に証明もできないのだから、そんなものは無いのだ。だから怖くもなんともないし、幽霊とか死後の世界とか、あると考える人の気持ちも分からないし、怖がる人の気持ちも分からない。
そんな人もいます。

私が怖がりだというと、「霊とかそういうものを信じているんですか?」と言われることがあります。
そう言われると、ちょっと答えに困ります。

何故怖いのか、自分でも全く説明がつかないし、だから上記のような怖がらない人のように、「自分はそんなもの見たこともないし、見たいう発言も、それは何らかの錯覚に違いなく、脳の機能の分析が進めば、脳がどのように錯覚を起こすのかということも証明可能な筈である」と考えて、否定したいと、自分では思っているのです。

でも、そんな理性的思考とは裏腹に、「怖い」と反応してしまう。

人によっては、「それは見えずとも(霊などの存在を)感知しているんですよ」と言います。

もしかしたらそうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。
ただ、やはり、目に見えない世界を否定もできないのです。
だから、そういったものはあるのだろう、と考えています。

こういった目に見えない世界やヒーリング、スピリチュアルなことに対してどう感じているか。どう考えているか。

これは完全に主観の問題だと思います。

私の理性は、否定したい。物質的に証明可能な範囲のことのみ扱って、一生を終えたい。そう考えています。
しかし、困ったことに私の感覚は、否定してくれない。どれほど説得を試みられても、怖い感覚は消えない。

だから一方で、「そんなものはない」と考えている人に、何らかの証明を試みようなどというのも、基本的に意味がないと思います。

その人の主観的感覚が感じていることが、究極的にはその人にとってのリアリティなのだと考えています。

また、実際に現実で効果を発揮しているヒーリングなどのエネルギーワークについて、何とか活用する術はないかと測定による研究を行うことは、専門家の方には是非やってみて欲しいとは思います。

しかし、占星術や数秘術、宗教的な思想体系などを「科学だ」と言い張る人がいますが、それは違うと思います。

科学とは?

これについては、以前作家の清水義範氏が瀬名秀明氏の発言を引用していたのを孫引きで紹介してみましょう。

「科学では、観察した事象に再現性があるかどうかということが重要な問題になってきます。(中略)幽霊の場合も科学的な検証がなかなかできないわけですね。」

占星術や輪廻の思想、神様などに事象の再現性はあるか?
残念ながら「No」ですよね。

輪廻転生などの宗教的思想も占星術も、科学ではありません。
科学的に証明することも不可能です。

ただ、私は「科学ではない」=「それより劣った物」と考えてはいません。
別物。それだけのことです。

そういう姿勢で書いているのだな、と考えていただければと思います。ひよざえもん やったね
ここ1年ほど、知人の紹介で、『バガヴァッド・ギーター』の勉強会に参加させていただいており、ヒンドゥーの思想を色々と知るようになりました。

『バガヴァッド・ギーター』は、昔…というと大学時代、かれこれ20年以上前に、文庫版で出ていたのをちらりと読んだことがありました。
多分知り合いにこんな本があると聞いたのだと思うのですが、なんで読もうと思ったのかよく覚えていません。;^_^A

高校の世界史の時間に、四大文明で、インドの叙事詩に『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』があって、バラモン教ではウパニシャッド哲学が云々、とか習ったような覚えがありますので、当時は
「あ、その『マハーバーラタ』の一部ね」
と、インドの神話の一部としてざっくり読んで、すっかり内容は忘れていたのですが。

ところが、改めて『バガヴァッド・ギーター』を軸に、ヒンドゥーの思想を知っていくと、私がこれまで関わってきた西洋の神秘主義思想や哲学、スピリチュアル関連の手法などとクロスオーバーする部分有り、異なる部分もあり、色々と知識が補完されて、実に面白い。

私は元々、宗教思想には興味がある方ではありますが、人間が作った団体である宗教団体はどちらかというと嫌悪の対象でした。

しかし、そういった集団の中でよくある、教義の伝達が歪んでしまうという特有の問題点の原因なども見えてきたのが興味深いところでした。

だもんで、またぼちぼち、こういった情報や感じたこと、考察などを自分の覚書という意味も含め、こちらに書いて行きたいと思います。ひよざえもん やったね