池上本門寺 再建中の清正公堂 | 第三の人生・・ひとり旅

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 熱心な日蓮宗信者であった加藤清正公と池上本門寺は縁が深く、

池上本門寺には加藤家にまつわるものが多くあります。

 

 再建中の清正行堂の姿が見えてきたので、

加藤家にまつわるものをいくつか取り上げ取り上げてみました。

 

 池上本門寺 大堂

 

 再建中の清正行堂

 この三重塔は加藤清正生誕460年、此経難持坂建設400年の報恩事業

として再建されている清正行堂。

 囲いも取れ建物全体が見えてきました。完成は秋ごろのようです。

 

 

 

 

 石段(此経難持坂)

 この石段は、加藤清正(1562~1611)の寄進によって造営されたと伝えられ、

「法華経」宝塔品の偈分96文字にちなみ、96段に構築され、別称を「此経難持坂」

という。なお元禄(1688~1704)の頃に改修されているが、造営当時の祖型を

のこしており、貴重な石造遺構である。

 清正は慶長11年(1606)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、

この石段もその頃の所産と思われる。 ※大田区設置の暗案内板より

 

 加藤清正供養塔

 山内最大級の宝篋印塔であり塔身・笠・相輪が完備している。

この供養塔は加藤清正(1562~1611)の息女で紀伊頼宣の室(夫人)

揺林院(1601~66)が父清正の満38年目の忌日に当たる慶安2年(1649)、

その供養のために造立したものである。

 清正は、安土桃山時代の武将として有名であるが、熱心な日蓮宗信者でも

あった。加藤清正父娘の信仰心と孝養心が、うかがえる供養塔である。

                 ※大田区設置の案内板より

 

 加藤清正室の層塔

 この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。

現在では相輪も失われ、八層を残すのみとなっている。

 初層塔身の銘文によれば、寛永三年(1626)に十一層の石塔として建てられた。
加藤清正(1562~1611)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(1601~53)

の母である正応院が、生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという

逆修供養のために建てたものである。本門寺一五代日樹が開眼している。

                           ※大田区設置の案内板より

 

 鐘楼

 正保四年(1647)、加藤清正の息女で後に紀伊頼宣室(夫人)となった

瑤林院(1601~66)の寄進した梵鐘である。
 正徳四年(1714)に紀州粉河の鋳物師木村将藤原安成によって改鋳。

その際初鋳当時の銘文がそのまま残され、縦帯の銘文は筆順に随った

籠字筋彫りであるのも珍しい。その雄大さと共に豪快重厚な作風は都内屈指といえよう。
 戦災による鐘楼の焼失で一部に亀裂と歪みを生じたが、なお資料的価値は高い。

                                        ※大田区設置の案内板より   

 

 紀伊徳川家墓所の揺林院の宝塔

 この墓所は、養珠院お万の方〔承応二年(1653)没〕、および瑤林院

〔寛文六年(1666)没〕をはじめ、主として江戸藩邸で没した藩公の内室

(令夫人)を埋葬したものである。
 墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容を示している。
 お万の方は、徳川家康の側室で、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房の生母である。

その薫化により日蓮宗に帰依した頼宣は、法化経を信奉することが篤かった加藤清正の

息女の瑤林院を妻として以来、池上本門寺との関係がより深いものとなった。

                                ※大田区設置の案内板より