第60回「《FREEDOM SEVEN》とコミュニケーション・ツール」(時事問題) | 新稀少堂日記

第60回「《FREEDOM SEVEN》とコミュニケーション・ツール」(時事問題)

 第60回は、「《FREEDOM SEVEN》とコミュニケーション・ツール」(時事問題)です。、「FREEDOM SEVEN」につきましては、5月16日の日記に書いています。興味がありましたら、次のアドレスをクリックしてください。http://ameblo.jp/s-kishodo/entry-10097237036.html


 前回、日記を書きました時の媒体は、ヤフーのフリー動画サービスでした。当然パソコンで観ています。写真は、DVDのジャケットを撮ったものです。当然モニターは、薄型テレビです。迫力が随分異なります。大音量・大画面です。御近所に迷惑をかけない昼間に見ました。


 かってマクルーハンと言う社会学者がいました。独自のメディア論を構築しました。「メディアはメッセージだ」というような、過激なメディア論を展開しました。日本でも、大ブレークしました。私には、クール・メディア、ホット・メディアの分類には意味の無いことと思われましたが、今でもメディア論とか、コミュニケーション・ツールを考える時、避けて通れない巨大な存在です。


 「メディアはメッセージだ」との意味は、人間がメディアからいかなるメッセージを得るのではなく、メディアそのものが人間を規定するという決定論にあります。当時には、インターネットもモバイル(携帯電話)もありませんでした。マクルーハンは、テレビの社会に及ぼす影響を中心に論述しました。


 彼の基本的なスタンスは、コミュニケーション・ツールにも当てはまります。人間がケータイを使うのではなく、ケータイが使用する人間を規定する。インターネットも同じです。最近の事件で、加害者・被害者のケータイでの通信内容が多く報道されています。ケータイでの掲示板・プロフ・ブログなどです。ケータイの特性からしまして、ほとんど「ワン・フレーズ」です。極端に短い文章が、一つの記事を構成しています。


 それが極端な発言を生みます。マスコミの指摘する匿名性よりも、このワン・フレーズに特徴があります。では、パソコンでのブログは、  ????   私を含めて多くの人は、受忍限度(我慢して読める最大の文章量)である情報量は、A1用紙にして一枚程度のの内容ではないでしょうか。


 「黒澤明監督作品である「七人の侍」における黒澤演出について、A1用紙15枚以内で論述せよ」の課題で書かれた小論文を、私ならパソコンで読む気はありません。それぞれ、適したツールがあります。ケータイ・メールとか、ケータイの掲示板には、それなりの良さがあります。しかし、それはワン・フレーズとなります。自己の想いとか、自己がどうして、こう考えるかのプロセスを伝えるには、適したツールとはいえません。


 マクルーハンの「メディア論」は、決して死んでいません。


(6月23日 お詫び) アドレスに間違いがありました、申し訳ありません。なお、本日修正いたしました。併せて、文章の明らかな誤りを修正しています。