読み飛ばし可 | super fantastic!!!!!!!

super fantastic!!!!!!!

さとうかいのブログ。
SUGOI!

ぼくの部屋の壁には未だに、専門学校の卒業制作でつくった模型がぶら下がっている。多少の自慢も含めて書くならば、この模型は、ぼくの卒業制作を担当してくれた先生がとても気に入ってくれて、制作期間中は「展示が終わったら、永久貸し出しという形でぼくの事務所に持って帰らしてくれ。」と言っていたものであるが、展示を終えてみると「やっぱり君が持っていた方がいいと思う。自分の立ち位置を忘れないためにもそうしなさい。」とまで言ってくれたものである。だから今も壁にかけている。ただの自慢である。で、まぁまぁ、その頃のぼくは今よりも生意気だったので、「そんなもん、仮に自分で持ってなくても忘れるわけ無かろうもん。」と思ったものである。若さである。そうやって恩を感じながらも若干の反発をしたのには理由があって、それを説明するにはまず、この卒業制作の説明が必要であろう。何かさあ、アパートって面白くないじゃん?同じ形の四角い部屋がダーッと廊下の両側に並んでてさ、隣の人の顔も知らないとかさ。ま、都会で女性の一人暮らしなんかだと、そっちの方がいいなんて話もあるけど。ほんとは「あの、夕飯つくりすぎちゃって、これ、カレー…」なんてのを期待している程ではないがそこに期待を抱ける位のロマンは理解できますやん?面白くねえよなぁって思ってて、だからオモシロアパートを作ろうと思ったのが根底。そこでまず、あの「本棚を見ればその人がだいたいどんな人か分かる。」なんて言説の応用で、その部屋を見ればその人がだいたいどんな人か分かるって思ったんだ。カシコぶった言い方をするならば、「現代の居住空間を構成しているのは、人ではなくその所有物であると言える」だ。わかりやすく言うならば、「なぜ線路沿いの家の住人は、線路に面した出窓に、線路に向けてミッ◯ーマウスのぬいぐるみを飾るのか?」だ。室内から見たらミッ◯ーの背中しか見えないじゃないか。つまり自分の所有物に自分自身を語らせているわけだよ。あなたの登録しているミクシィのコミュニティのうち何割が、ほんとうにそれが好きだから登録したんじゃなく、「それが好きキャラ」という自分の説明のための登録ですか?と。そうして思いついたのが、「部屋の中を見せびらかす様な窓の取り方」と、「見せびらかしたくない場所を隠すための死角を生む、入り組んだ形の部屋」である。しかしそれだけではこの劇場型住居は完成しない。ネクスト問題は、観客をどう呼び込むか、だ。その頃のぼくはさ、ガイ・リッチー監督のロックストックシリーズという映画に本当にやられてて、それはどんな映画かというとこんな感じだ(リンク参照)。節々で微妙に接触しながらも、絡み合いながら、でも決して交わる事なく進むいくつかのストーリー。クライマックスでついにそれら全てが交わり、その爆発的なドタバタでこんがらがった糸がさらにこんがらがっちゃったよ、もうムチャクチャや!と思っているうちに見事にその糸は解け、悪者はバッドエンドを迎え、いい者とは言えないが共感したくなるタイプのヤツはちゃんとハッピーエンドを迎え、なんかよく分かんなかったけど丸く収まった!よかった!というこのカタルシス。ああ、いいなぁ、こういうやつ作って、みんなに「この人アタマいいんだ」って思われたいなぁ。そんな不純な動機を抱え、しかしこれをそのままやったのでは(そういうストーリーを作ったのでは)インテリアデザイン学科の卒業制作として、何だか困った物になっちゃう。賞なんてもってのほかだ。という更なる不純な動機も抱え、ようやく到達したのが、「用途も時間軸も違う機能を持たせる」という手法。具体的には「ムリヤリ公園と合体させる」という案だ。こうしてワタクシの卒業制作、「公園アパート」は生まれた。賞も貰った。ただの自慢である。さて、そんなぼくの「建築的暴挙」は、先生の多大なるアドバイスもあり、ぼくの目論み以上に建築的な文脈で作品としてまとまった。講評に参加した講師のみなさまの満場一致の評価も得た。しかしこれは、当時より素直になった今のぼくに言わせれば不当な評価である。簡単に言うと「だからといってこのまま真面目に建築家になると思うなよ!」である。つまり、建築とかの話の中である程度まとまり、そこに評価を得たことによって、ぼくがやりたかった「建築とかじゃない話」の部分がこぼれてしまったのだ。(賞を取りたかったから、わざとこぼしたわけでもあるが。)これが、最初の方に書いた、先生のありがたいお言葉に反発した理由である。では、建築とかじゃない話、とは一体何か。ぼくの捉え方では、建築であるとかもっと大きいもの小さいもの含めて、「形をつくる事」、そうやって出来上がる「形」はハードである。そして、そこにやって来る「人」、その人たちが行う「活動」などがソフトである。そのハード・ソフト両方があって生まれて来る「状況」の話がしたいんだよぼくは。まあその「状況」を生む為に「形という種を蒔く行為」が「デザイン」という言葉の本来の意味だと思うし、例えば「建築士」という資格ではなく「建築家」という職業を名乗る人はそう思って仕事をしてるとぼくは思うんだ。さらに前述の「ソフト」の方だけでは、「人が活動する事を促す行為」という、どこでお金をもらうねん?な話になってしまう。どうしたらいいのだ、やはりぼくは映画を撮るしかないのか。ま、結論は出てないんだけど、なんとかそういう事で食って行けねえかなと思って、だから、先生の意図とは若干違ってると思うんだけど、ぼくはもう暫く、この模型を壁にかけて眺めていようと思うんだ。