本書は、ウイリアム・アダムスの来日から、彼の母国イギリスとの通商が成立までの十三年間の動向に着目し、彼は外交顧問として何をしていたのか、そして、どのような役割を果たしたのか、彼の動向から幕府に置かれた位置を検証した一冊である。
本書は、ウイリアム・アダムスの来日から、彼の母国イギリスとの通商が成立までの十三年間の動向に着目し、彼は外交顧問として何をしていたのか、そして、どのような役割を果たしたのか、彼の動向から幕府に置かれた位置を検証した一冊である。
『戦国期武田水軍向井氏について―新出「清和源氏向系図」の紹介―』『神奈川地域史研究』十六号 一九九八年
はじめに
徳川氏麾下以前の向井氏に関する史料は少なく、僅かに『甲陽軍艦』や戦記物『北条九代後記』などにみるだけである。従ってその発祥地をはじめ、足跡についても不明な点が多い。ここに紹介する『清和源氏向系図』は、向井将監忠勝の直孫で当主の辰郎氏(横浜市在住)に伝受されたもので一九九八年、『神奈川地域史研究』十六号に掲載させて頂き、その際、同系図の向祖長宗から九代忠勝までの全文を紹介することを主眼とし、若干の考察を加えさせて頂いた。ここでは向長宗の祖とされる仁木実国に遡り忠勝の子正方までの全文を紹介してみたい。因みに、将監忠勝の弟正次の後胤・向井啓氏が東京都中央区におられる。東京都日野市に向井二郎氏がおられる。
新出『清和源氏向系図』 について
『清和源氏向系図』は、徳川幕府が『寛永諸家系図伝』(以下『寛永譜』と略す)編纂のため、大名旗本に家譜を書き上げさせた際の基資料となったものと思われる。「享和年中普大改 向井将監正直書改」とあり、幕府が『寛政重修諸家譜』の編纂に着手した頃であり、これを機に書き改めたものと思われる。本書の巻末に、原本のコピーを一部分を掲載しておいたが、美しい筆法で書かれ、練達した祐筆の風格を思わせるものである。
清和天皇から書き綴られ貞享三年(一六八六)五月十一日、右京大夫義長と長忠の間が朽ちて不分明により、兵庫介が宇都宮左近春房を尋ね、上代よりの記録を相考え長宗、長興の二代を書き加えたとしている。以後、書き継がれ文政四年(一八二一)十二月四日の十六代正通で終わっている。各々の事績と向井家文書が書写挿入され、これらは当然ながら『寛永譜』や『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』と略す)、『譜牒余録』の向井氏書上げと一致し『甲陽軍艦』『徳川御実記』『通航一覧』とも逐一符号する。しかも『清和源氏向系図』は記述が詳細であり、且つ、初見の史料や記事が多く挿入されていて、興味深い。因みに仁木義長以前の人物は『尊卑分脈』と一致している。人物については、仁木頼章の生没年を「延慶三年五月一日生・延文四年十一月一日五十歳」と記し、不詳とされる頼章の弟義長の生年を「元応二年三月三日」(没年は永和二年)と記し、やはり、生没年不詳とされる義長の実子満長を「文和元年二月四日生」と記している。
まず『清和源氏向系図』をあげ、既知の諸向井系図と比較しながら、その発祥地から徳川水軍に至るまでの大まかな足跡を辿ってみたい。
武田水軍の時代
(前略)―源義家―義国―義康―義清―義実―┐
┌―――――――――――――――――-―――┘
└実国――――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
仁木元祖 |
建久三年壬子十二月十日生足利太郎修理亮 元久元年甲子四月平家餘党冨田 |
基慶等攻伊勢伊賀謀実国十三歳而餘党平軍功依伊賀国阿部郡自実朝公下賜 |
建保二年乙亥二月三日修理亮任仁木号 |
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└―義俊 太郎修理――――――――――――――――――――――――――――――┐
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└―義継――――――――――――――――――――――――――――――――――-┐
仁治元年庚子四月二日生又太郎 左衛門 |
應長元年辛亥九月十一日卒法名閑山秋道 |
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└―師義―――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
弘長三年癸亥三月一日生太郎 |
喜元三年乙巳正月北条師時北条貞時代勤北条宗方師時権争宗方謀将軍久明親王|
仰称師時ヲ夜討為時師戦時ニ属二月十三日夜討死有大功働四拾三歳 |
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├―頼直 正応二年己丑三月二日生太郎左衛門
└義勝 右衛門――――――――――――――――――――――――――――――――┐
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├―頼章
│ 延慶三年庚戌五月一日生 左京大夫
│ 文和三年甲午三月五日武家執権任
| 文和四年正月将軍尊氏公男直冬、山名時氏師氏等取立尊氏公恨同二月三日過将
│ 軍軍頼童無二心細川土岐佐々木赤松倶防戦故尊氏公勝利頼童忠功依也
│ 延文四年己亥十一月一日卒五十歳
└義長――――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
元応二年庚申三月三日生三郎 右京大夫 |
暦応三年庚辰八月朔日新田義助尊氏公止泉州阿部野合戦 義長尊氏公属諸士抽|
軍功勝利延文二年丁酉三月三日仁木義長自尊氏公伊勢三郡賜 |
延文五年五月細川清氏義長亡事謀七月一日天王寺陣取義長為枚故義長 義詮 |
公参清氏追討御教書乞而清氏謀顕本領籠城 |
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├―満長 文和元年壬辰二月四日生 次郎丸―――――――――――――――――――┐
├―女子 ┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
│ ├満則
│ │ 応安三年九月十二日生三郎 右衛門母ハ松永出羽守女始ハ 右近大
│ │ 夫月若丸ト称義長心応セルニ依テ三郎ト号ト云
│ └女子 同六年十二月三日生
└―長宗―――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
向元祖 |
延文四年己亥三月一日生 仁木四郎号 │
応安七年甲寅三月将軍 義満公菊池武政為追罸九州江発向之時供奉ス将軍太宰│
府着給先鋒之大将斯波義持畠山義深陣江令行長宗僅之卒勢ヲ菊池孫次郎武元同│
彦四郎武秀為大将五百余騎前後討掛ル長宗百騎勢二分ケ散々ニ戦長宗自カラ武│
元武秀ヲ討捕得ル其首ヲ │
応永四年丁巳二月一日自将軍義持公伊賀国向庄下賜則仁木改向尾張守号度々依│
武功也 │
応永六年己卯十月大内義弘九州中国勢以起謀叛依之十一月三日義満公八幡出張│
畠山基国斯波義将細川頼元北国勢加発向長宗伊賀与利遠路凌来而戦十二月廿一|
日義弘城破義弘討死子新介降参為賞同七年庚辰正月三日伊勢国旧領義持公与利│
下賜 │
応永二十五年戊戌二月廿九日卒六十歳宗光院道善 |
┌――ー――ー―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├長興――――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
| 康暦二年庚甲七月九日生 中務大輔 │
| 応永廿二年乙未七月朔日自将軍 義持公日吉於神前美濃国山中庄下賜 │
| 同参拾年癸卯三月義持公伊勢参宮之時供奉而上京逼留在京同三十一年甲辰二月義|
│ 持公鎌倉持氏止不和依之為国用心暇給御太刀下賜二月廿五日京都発足ス │
│ │
│此系譜雖取持ス右京大夫義長ヨリ修理亮長忠之間朽テ不分明依之宇都宮左近春房江兵庫│
│介与相尋処ニ自上代記録相考貞享三年丙寅年五月十一日書付持参ニ付長宗長興二代書│
│加ヘ畢 │
└―長時 仁木兵部大輔 義満公義持公仕―――――――――――――――――――┐│
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――┘│
└長行 仁木兵庫助―――長親 向井伊賀守 義教公近士。 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├―長忠―――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
│ 応永十二乙酉十二月一日生 三郎修理亮 |
| 永享十年戊午十月将軍 義教公鎌倉持氏公不和合戦時将軍方属勇功績 │
│ 享徳元年壬申五月六日卒四十七歳 │
└奥春―――――――――――――――――――――――――――――――――――┐│
応永十四年丁亥二月廿五日生 ││
同十五年戊戌二月廿五日庄之助号 ││
山中右衛門号 ││
美濃国山中庄領 ││
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘│
├義真 永享元年己酉五月朔日生 │
| 号右馬之助 │
└為茂 永享二年庚戌二月朔日生則日 │
速水時則為養子継家 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├―長春―――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
│ 永享九年丁巳四月五日生三郎 式部大輔 |
| 寛正元年庚辰九月畠山右衛門佐義就謀叛依畠山政長雖討手向義就強敵故政長軍│
│ 利依無之将軍 義政公加勢乞同三年四月細川成之山名是豊武田佐々木伊勢国司│
│ 北畠教具向長春弟修理共ニ重而向攻之義就敗北長春兄弟諸士抽功績 │
│ 応仁元年丁亥正月細川勝元ト山名右衛門督持豊入道宗全不和前将軍義視公宗全│
│ 方御座同九月四日義視公京出伊勢国北畠中納言教具卿館御座同十七日長春一番│
│ 参警固 │
│ 同二年十月義視公上路時弟修理供奉勤 │
| 延徳二年庚戌正月十二日卒五十四歳 │
└公仲 文安二乙丑年 修理 |
寛正三壬午四月河内嶽合戦有大功誉十八歳時也 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└長勝――――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
寛正元年庚辰八月九日生 右衛門佐 │
文亀二年壬戌五月廿三日抑口論敵五人切殺数ケ所手負腹切不叶刀啐死四十三歳│
┌―――――――――ーー――――――――――――――――――――――――――――┘
└―忠綱―――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
長享二年戊申二月一日生三郎太郎 刑部大輔 │
永正二年乙巳六月北条早雲近国威振忠綱十八歳早雲合戦得勝利重軍猶雖勝利大│
敵後詰依無之引退天文廿二年癸丑年卒六十六歳 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├―正重―――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
│ 永正十六己卯年生助兵衛尉 伊賀守 |
| 弘治年中今川義元卿 朝比奈駿河守以招給ニ依駿河下参元卿エ属今川家没落以│
│ 武田晴信卿ヨリ山縣三郎兵衛昌景以招呼給其文之写 │
│ │
│ 定 │
│ 向助兵衛尉早々令参上ハ被宛行知行等 │
│ 海賊之儀可被 仰付者也仍如件 |
│ 元亀三年壬申 山縣三郎兵衛奉之 │
│ 二月六日 信玄朱印 │
│ 朝比奈五郎兵衛殿 │
│ 本文兵庫介正興所ニ有之 │
| |
│因茲元亀三年より晴信公尓仕度々武勇誉有天正五年駿州興国寺在城勝頼卿より感書を│
│給ふ其文写 │
│ 急度染一筆候抑今度敵其表相探候処に在所之是非妻子ニ不悶着応下知其地在│
│ 城忠節不浅次第候必一恩謝忠切身上可引立候弥可被働忠信儀専一候委細令│
│ 附而落合大蔵少輔口上候之条不能具候恐々謹言 │
│ 六月 勝頼 御在判 │
│ 向伊賀守殿 │
│ 同 同心衆 │
│ │
│其後同国用宗之城守テ天正七己卯年九月十九日 │
│家康公兵一万ヲ以御動座先陣松平家忠甚太郎牧野康成右馬之允以攻給ふ伊賀守諸卒に│
│下知して相戦といへとも兵つき運きわまって六拾一歳尓して自害す尾崎半平首を揚る│
│同心遠藤飛騨杦山作左衛門家来尓より大時孫右衛門渡辺勉角之助脇久助原庄右衛門脇│
│原三佐衛門大野三蔵討死此者ともハ皆信玄勝頼茂御存知之者也此外之士卒討死すとい│
│えとも大勢故不及記 │
└―正利城右衛門尉 ――――――――――――――――――――――――――――┐│
伊賀守弟 病者故勢州慥柄尓居ス ||
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――┘|
└正直常聲入道―正吉作兵衛尉―――正員作兵衛尉――――正敏弥十郎 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
├―正行伊兵衛尉 正重養子――――――――――――――――――――――――-―┐
│ 武田晴信卿勝頼卿に仕、父伊賀守と同城尓おゐて勇功をはげまし四拾二歳ニ而│
│ 自害 │
└―正綱 正重実子―――――――――――――――――――――――――――――┐│
兵庫助 後兵庫頭改 家紋上り藤丸替文丸ノ内二ツ引五七桐 ││
母長谷川伊勢守長憲女 ││
弘治二丙辰年生 ││
武田晴信卿勝頼卿に属し後尓天正十年六月より ││
家康公 秀忠公両君に奉仕前天正七年卯年四月末北條之兵と吉原表において船戦す││
強敵を撃破敵船を乗取勝頼卿より感状給る其文之写 ││
此梶原は法条衆梶原満と申もの、船奉行││
大身千々ヨシ拝見船ナリ度々廻合有之 ||
今度至伊豆浦及行之砌梶原馳向之所作戦得勝利郷村数ケ所撃破殊尓敵船奪捕││
之誠尓戦功之至感入候向後弥可励忠勤者也仍如件 ││
卯月廿五日 勝頼御印判 ││
向井兵庫助殿 ||
本文兵庫介政興所ニ有之 ││
父伊賀守用宗之於城戦死之節者駿州清水之津押テ有之 ││
其後勝頼卿より父伊賀守家督を兵庫介給る。其書出シうつし ││
定 ||
駿州 ||
一 嶋一色口 百八貫六百弐拾文 ││
同 ││
一 平嶋江増分 四拾七貫参百文 ││
同 ││
一 浅脇内 参拾貫百文 ││
同 ││
一 久爾之郷内 弐百六拾七貫八百七拾文 ││
同 ││
一 横尾内 四拾弐貫参百弐拾文 ││
同 ││
一 正念寺分 三貫八拾文 ││
同 ││
一 徳願寺領 塩津内 三貫百五拾文 ││
同 ││
一 小河内 源左エ門家敷 拾五貫文 ││
同 ││
一 岡部内 浅羽給 拾貫九百文 ││
同 ││
一 高橋内 彦三郎分 八貫弐百拾文 ││
同 ││
一 足洗内 東光寺分 九貫百文 ││
同 ││
一 宇藤内 御厨分 拾八貫文 ││
同 ││
一 一色内 冨士常陸分 弐拾貫文 ││
同 ││
一 中根内 三貫九百文 ││
同 ││
一 徳願寺領 拾参貫四百弐拾文 ││
同 ││
一 大屋内 拾五貫文 ││
遠州 ││
一 西嶋郷新田共 長谷川右近少 四百拾弐貫八百文 ││
同 ││
一 大原内 百五拾四貫弐百文 ││
以上 ││
父伊賀守今度於尓用宗之城戦死誠忠信無比類次第候者右抱来領知相斗集武勇之││
輩海上之奉公不可有疎略猶戦功可令重恩者也仍如件 ││
天正七年己卯 ││
十月十六日 勝頼御居判 ││
向井兵庫介殿 ││
本文主水所ニ有之 ││
||
徳川水軍向井氏の時代②へ続く
『幻の鎌倉執権三浦氏 関白九条道家凋落の裏側』清文堂 2022年刊 鈴木かほる著 定価4800円+税を、税込み4000円。
寛元の政変・宝治合戦の通説への疑問―建長・弘長騒動までを見直す ご注文は、S-K20@ymail.ne.jp 著者へ
寛元の政変における通説的理解は、寛元四年(一二四六) 閏四月の北条経時の卒去に端を発し、北条氏庶流名越光時が前将軍藤原頼経を後ろ盾と恃み、自らが執権の地位に挑もうと企てたもので、名越光時を中心として起こされたことから「名越氏の政変」あるいは「宮騒動」とも号している(1)。「宮騒動」と号するのは、鎌倉末期の編纂とされる『鎌倉年代記裏書』である(2)。
つまり寛元の政変は宮騒動と同義的に捉えられており、「宮」の由来については、事件の背後にいた藤原頼経は宮家ではないが、宝治合戦・建長騒動と連関していった結果、摂家将軍が政治実務に関わる道を閉ざされ、北条泰時の嫡孫ではない舎弟時頼による得宗専制政治が確立し、宮将軍宗尊親王の誕生へ繋がったためではないかとされている(3)。筆者は、予てから、この通説に疑問を持っていた。宮騒動の「宮」が宗尊親王を指すのであれば、寛元の政変から宝治合戦、さらに親王将軍を迎立するに至った建長騒動までを、宮騒動として捉えなければならない。これには、どうも違和感を覚える。
「宮騒動」と号するのは『鎌倉年代記裏書』のみであるが、編者の鎌倉幕府吏員が「宮」と号したということは、そこには宮を根拠とする、何がしかのメッセージが隠されているのではないかと考えたのである。先学では「宮」の由来については不明とされ(4)、他の説明では、後嵯峨天皇の皇嗣として後鳥羽院の第三皇子六条宮雅成親王を擁立する風聞があったが、あくまでも噂とするのみに留まり(5)、管見の限り「宮」の由来について検証した論はない。
寛元の政変についても、主として『吾妻鏡』を中心に考証した先学が殆んどであり、公家の日記等を用いた論究は比較的に少ない。三浦氏が西園寺公経や九条道家と深く関わるようになるのは、道家の子三寅(頼経)が鎌倉殿として迎えられた以降であるが、先学では三浦氏と西園寺家・九条家との関わりについても、やや乏しい感がある。
また寛元の政変は、本当に名越光時自らが執権に就くことを狙ったものであったのか、これについても大いに疑問が残る。宝治合戦についても、なぜ三浦氏が抗戦せずに安達氏の挑発に屈したのか、これについても、もう少し考えなくてはならない。
そこで本小稿は、先学の上に未考証史料を加えながら、寛元の政変から宝治合戦、さらに建長・弘長の騒動までの一五年間の史料を辿り直し、「宮」の由来を探査することによって一連の事件の根底にあるものを探り、その背景にいて名越氏・三浦氏と密接な関係にあった西園寺家や九条家と、北条氏の動向を見直し、事件の本質を明らかにした。
「はじめに」より
坂本龍馬の妻・楢崎龍の奥つ城(墓所)は、神奈川県横須賀市大津町信樂寺にある。彼女は、龍馬の死後、土佐、京都、東京と流転生活を送り、安住の地を求めて、神奈川県三浦郡浦賀町大津村字保込(横須賀市大津町五丁目)へ移住し、同郡豊島村深田観念寺(横須賀市深田台)の棟割長屋で、六十六年の波瀾に富んだ生涯を閉じた。彼女は、その半生を横須賀で過ごしたのである。坂本龍馬の研究者は多く、龍馬の書物は数々存在するが、お龍に焦点を当てたものとなると、小説は幾つかみられるが、管見の限り真実を綴った正史はない。龍馬の生涯を語る上でも、楢崎龍は、必要欠くべからざる存在である。
お龍のことは明治十六年、作家の坂崎紫瀾が、龍馬の小説「汗血千里駒」を高知県の『土陽新聞』に連載しベストセラーとなって以来、幾つかの小説に発表され、歌舞伎やテレビにも放映され知られているが、その真実の生涯を知る人は少ない。特に、横須賀における晩年のお龍については、悪い印象を持つ人は少なくない。実は、かく言う私も、高橋恭一著『坂本龍馬の妻りょう女』(横須賀市観光協会 昭和四十三年)を読み、彼女の終焉の地の隣町に住みながら興味は持ち得なかった。
その私が、楢崎龍を調べる契機となったのは、平成十八年の「お龍の没後百年祭-お龍と龍馬の資料展」開催に向けて、横須賀市大津観光協会事務局の関沢裕享氏より資料収集のお手伝いを頼まれたことにある。宮地佐一郎の労作『坂本龍馬全集』(光風社書店 一九七八年)を参考に、資料収集を進めるうち、流布されている伝記には、余りにも俗説、誤謬が多く、しかも、未だ知られていない事柄、取り上げられていない真実が多々あることを知った。
お龍については、小説や劇作によって創作され、ややもすると長所が隠され、酒豪で勇健ばかりを印象づける内容もある。そんな彼女に同情し、素直に資料にあたり真実に近い生涯をまとめたいという思いが募り、拙い筆を走らせたのが『市史研究横須賀』四号(横須賀市 平成十七年)であり、本書は、それを発展させたものである。
お龍のことは、元海援隊士・安岡金馬の子重雄(号秀峰)による「反魂香」、土佐出身の川田瑞穂(号雪山)による「千里駒後日譚」、この二つのお龍の回顧録と、龍馬や龍馬の周辺の人々が残した書簡、記録などから、凡そを知ることができる。お龍の記憶力は抜群であり、回顧録に載るその陳述は、龍馬の死後三十余年を経ているにも拘わらず、詳細であり、お龍しか知り得ないものも多々あり、そこには龍馬に対する思慕の念に満ちあふれ、彼女の半生を知る手掛かりとして貴重なものである。
お龍は政治的なことには興味はなくてよいと、龍馬から言われていたせいか、政治的なことには弱く、部分的に正確な細部を語る一方、史実と相違した述壊、記憶違い、誇張も散見し、玉石混交であり、吟味しなければならないが、他資料と一致するところも多く、決して、証言たる資料的価値を失ってはいない。幕末明治という時代の肉声を伝える一資料として貴重である。
龍馬研究は、多くの研究者によってなされているから、本書では、敢えて龍馬のことは言及せず、お龍のみに焦点を絞り、関係の諸資料を照合しながら、フィクションではない、お龍の真実に近い生涯をまとめた正史である。
「スペイン語圏を知る本(その57)」より 評者 坂東省次より
「著者は「最後に」でこう述べている。「実は、今年、平成22年は、三浦按針が徳川家康のために造船した英風小帆船が、フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロらを乗せ、サン・ベエナベンツーラ号と命名され、慶長15(1610)年6月13日、浦賀湊をメキシコに向けて出帆してから400周年にあたる。これが、幕府船として初の太平洋横断であった。」そして昨年(2009年)は、徳川家康とドン・ロドリゴ・デ・ビベロの間で日本・スペイン交流史上初めての外交交渉が行われてから400周年にあたった。それで、昨年と今年、記念行事がスペイン大使館、メキシコ大使館、セルバンテス文化センター東京、そして、ここ京都外国語大学で行われてきたことは多くの人の知るところで
ある。
スペインと日本の交流史は1549年のフランシスコ・ザビエル来日に始まるとされるが、1624年のスペイン船来禁止までのおよそ70年の交流史の前半はポルトガルと日本の交流が中心であり、スペインと日本の交流が本格的に開始するのは、後半とく1584年にフィリピンからスペイン船が平戸に着岸してからのことである。しかし、1596年の豊臣秀吉によるサン・フェリーペ号事件によって、両国の交易は完全に断たれ断絶状態になっていた。慶長3(1598)年8月18日、豊臣秀吉が京都伏見城において、その波瀾万丈の生涯を閉じると、そこに登場するのは徳川家康であった。家康は、秀吉の武断政治とは異なり平和主義の外交政策
を執った。そんな中で、家康は何よりもスペインとの国交回復に力をいれた、その目的はメキシコ商船の浦賀湊誘致とスペイン人造船技師と航海士、およびアマルガマ法の鉱山技師の招聘であった。
家康は江戸城に近い浦賀湊を国際港として開港し、東アジアの国々さらには太平洋を越えて、メキシコはスペインと広く通商を行うことを夢見ていたのであった。対スペイン交渉は、当時のスペインの植民地であったフィリピン、メキシコを通しておこなわれた。浦賀-スペイン間の貿易の確立を願う家康の前に、二人の外国人が登場する。一人はウイリアム・アダムスこと三浦按針であり、いま一人は、フィリピン前総督のドン・ロドリゴ・デ・ビベロである。
家康の外交顧問として活躍した按針は家康の使者としてフィリピンにビベロを訪れて家康の希望を伝え、またビベロの来日によって家康は直接の外交交渉にかなりの期待を持ったが、ビベロから期待した回答は受理できなかった。著者はこう述べている。「家康は、ビベロとの交渉にかなり期待を持ったであろうが、当時の国情から察すると、スペイン側が、敵国の日本に
鉱夫を送り、日本に国富を齎すような愚かな行為などしようはずはない。メキシコの真の目的は、鉱夫派遣に期待を持たせ、日本占領の前哨戦として、多くの宣教師を日本に送ることにあった。」と。
ロドリゴは1610年に家康の提供した三浦按針船サン・ベエナベンツーラ号で日本人22人とともに帰国し、翌1611年にはメキシコからサン・フランシス号が返礼大使のビスカイノがビベロに同行した日本人を乗せて浦賀湊に着岸する。メキシコ通商の夢断ちがたい家康はビスカイノ大使とも謁見するが、同大使との交渉においても新しい通商の展開は見られなかった。むしろ、ビスカイノ大使の来日は、伊達政宗の使節のヨーロッパへの派遣へと展開していった。政宗は、メキシコと直接の貿易を望んでいたのである。しかし、その使節つまり支倉六右衛門遣欧使節はスペインとローマを訪れるが、日本では禁教が進むなかで失敗に終わってしまった。
家康がウイリアム・アダムスを外交顧問にしたのも、キリスト教の伝道に寛容であったのも、すべてスペインのアマルガマ法の導入に専心するためであった、と著者は結論を下している。 ばんどう しょうじ(教授・スペイン語学)より
鈴木かほる著『幻の鎌倉執権三浦氏ー関白九条道家凋落の裏側』2800円+消費税。御注文は著者・鈴木かほる宛て s-k20@ymail.ne.jp まで。
坂本龍馬の妻・楢崎龍の奥つ城(墓所)は、神奈川県横須賀市大津町信樂寺にある。彼女は、龍馬の死後、土佐、京都、東京と流転生活を送り、安住の地を求めて、神奈川県三浦郡浦賀町大津村字保込(横須賀市大津町五丁目)へ移住し、同郡豊島村深田観念寺(横須賀市深田台)の棟割長屋で、六十六年の波瀾に富んだ生涯を閉じた。彼女は、その半生を横須賀で過ごしたのである。坂本龍馬の研究者は多く、龍馬の書物は数々存在するが、お龍に焦点を当てたものとなると、小説は幾つかみられるが、管見の限り真実を綴った正史はない。龍馬の生涯を語る上でも、楢崎龍は、必要欠くべからざる存在である。
お龍のことは明治十六年、作家の坂崎紫瀾が、龍馬の小説「汗血千里駒」を高知県の『土陽新聞』に連載しベストセラーとなって以来、幾つかの小説に発表され、歌舞伎やテレビにも放映され知られているが、その真実の生涯を知る人は少ない。特に、横須賀における晩年のお龍については、悪い印象を持つ人は少なくない。実は、かく言う私も、高橋恭一著『坂本龍馬の妻りょう女』(横須賀市観光協会 昭和四十三年)を読み、彼女の終焉の地の隣町に住みながら興味は持ち得なかった。
その私が、楢崎龍を調べる契機となったのは、平成十八年の「お龍の没後百年祭-お龍と龍馬の資料展」開催に向けて、横須賀市大津観光協会事務局の関沢裕享氏より資料収集のお手伝いを頼まれたことにある。宮地佐一郎の労作『坂本龍馬全集』(光風社書店 一九七八年)を参考に、資料収集を進めるうち、流布されている伝記には、余りにも俗説、誤謬が多く、しかも、未だ知られていない事柄、取り上げられていない真実が多々あることを知った。
お龍については、小説や劇作によって創作され、ややもすると長所が隠され、酒豪で勇健ばかりを印象づける内容もある。そんな彼女に同情し、素直に資料にあたり真実に近い生涯をまとめたいという思いが募り、拙い筆を走らせたのが『市史研究横須賀』四号(横須賀市 平成十七年)であり、本書は、それを発展させたものである。
お龍のことは、元海援隊士・安岡金馬の子重雄(号秀峰)による「反魂香」、土佐出身の川田瑞穂(号雪山)による「千里駒後日譚」、この二つのお龍の回顧録と、龍馬や龍馬の周辺の人々が残した書簡、記録などから、凡そを知ることができる。お龍の記憶力は抜群であり、回顧録に載るその陳述は、龍馬の死後三十余年を経ているにも拘わらず、詳細であり、お龍しか知り得ないものも多々あり、そこには龍馬に対する思慕の念に満ちあふれ、彼女の半生を知る手掛かりとして貴重なものである。
お龍は政治的なことには興味はなくてよいと、龍馬から言われていたせいか、政治的なことには弱く、部分的に正確な細部を語る一方、史実と相違した述壊、記憶違い、誇張も散見し、玉石混交であり、吟味しなければならないが、他資料と一致するところも多く、決して、証言たる資料的価値を失ってはいない。幕末明治という時代の肉声を伝える一資料として貴重である。
龍馬研究は、多くの研究者によってなされているから、本書では、敢えて龍馬のことは言及せず、お龍のみに焦点を絞り、関係の諸資料を照合しながら、フィクションではない、お龍の真実に近い生涯をまとめたものである。
初めて明かす伊勢水軍向井氏の実態。
概要
向井水軍ーというよりも、向井将監といったほうが通りがいい。向井氏は、伊勢国小浜の小浜氏・知多半島の千賀氏と同様、東国に移住した海上軍事官僚で、徳川御召船手として幕府滅亡まで船手頭筆頭の地位を保持した家柄である。向井水軍については、新聞記者で劇作家の福地桜痴によって脚本が書かれ、明治二八年二月、市川団十郎によって「向井将監」の題目で上演され、以来、小説などに登場し広く知られているが、どこから来たのか、どのような主君歴を経たのかとなると、知る人は少ない。それは、これまで向井周辺の海上活動を、系統的にまとめた一冊はないからである。日本水軍史を語る上で、向井氏研究は不可欠な存在であるが、史料も極少のため成されなかったのが実状である。
筆者は向井本家向井辰郎氏より、『清和源氏向系図』と新出の向井文書を託され、一九九八年『戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―』と題し『神奈川地域史研究』一六号に発表したことがある。一般向きには「戦国期向井水軍の足跡を辿って」と題し『三浦半島の文化』八号に発表した。『清和源氏向系図』の中に挿入された初見の奉書・朱印状の中で、特に戦国期に関するものは『戦国遺文 武田氏編』に収録され、水軍研究の活用に必然性を持つと考えている。
伊勢から東国に移住した向井氏が、どのように他水軍と関わり、そして消滅していったのか、周辺の動向を交えながら体系的に、一般向きに述べてたものである。
『相模三浦一族とその周辺史』2500円×2割引き+消費税 鈴木かほる著 2007年刊
「はじめに」より
相模三浦一族とその周辺史を手っ取り早く知りたい…、そんな人のためにまとめた一冊が本書である。やや厚いが一冊にまとめたのは、そのためである。
桓武平氏の後胤とされる三浦氏は、平安後期、相模国三浦郡から発祥した軍事貴族である。以後、江戸期まで凡そ800年間、脈々とその血統を伝え歴史に名を留めた。三浦氏が、三浦半島ごとき狭い地域に沈んでいたかというと、決してそうではない。その活動範囲は、近隣は海域を隔てた房総半島、東北は青森、新潟、会津、西国は四国、中国地方、北九州までほぼ全国に広がっている。各地の枢要な地に国司、守護、地頭職を獲得して勢力を伸ばし、一族を代官として派遣して支配させていたのである。彼ら代官三浦氏がそのまま土着したため、全国に三浦姓が現存するわけである。
近年、三浦氏研究は目覚ましい進歩を遂げつつある。その理由は2つある。一つは平成8年5月、神奈川県横須賀市長の肝いりで発足した三浦一族研究会(現会員400余名)の存在である。2つには、市政百年周年記念事業として『新横須賀市史』全十五巻の発刊計画による古代・中世資料編の刊行、この二つの相乗効果によるものである。
これまで三浦氏は、源氏や北条氏のような研究がなされてこなかったが、元東京大学の山中裕教授を会長に頂いて三浦一族研究会を発足させて以来、中央の研究者を講演会や講座等の講師としてお招きし、その結果、三浦氏研究に目を向けることができたのである。研究成果として顕著なのは、三浦氏はそれまで源氏に対する忠節と、質実剛健な武士というイメージから脱却し、幕府御家人の枠組みを超えた有力権門であり、京都には多くの縁者を配し、中枢の地に屋敷を構えていたことである。特に承久の乱後、京都政界に置いて、執権北条氏と並ぶ権門として、関白九条道家を畏怖させるほどの権勢を有していたことが判明している。
しかし新説、学術論文研究論文は、とかく細分化されていて、全体像が見えにくく、ともすれば、その成果が一般人と共有できないという、勿体ない結果に終わることも少なくない。本書は、そういう意識を以て、一般向きに著述したつもりである。三浦氏研究は始まったばかりであり、今後の『新横須賀市史』の刊行によって、一層、詳細が明らかとなるであろう。なお史跡関係は『三浦一族の史跡道』(横須賀市刊)を参考にして頂きたい。
最後に、上梓にあたり、ご尽力くださった新人物往来社の方々に感謝を申し上げたい。
平成19年5月 著者 鈴木かほる
横須賀市西逸見町塚山公園の安針塚に、徳川家康の外交顧問・ウイリアム・アダムズ(日本名三浦按針・以下三浦按針と記す)夫妻の宝篋印塔二基があり、国史跡となっている。三浦郡逸見村は三浦按針の旧領である。
三浦安針墓の発掘調査は明治三十八年(一九〇五) 五月、英国公使・神奈川県知事らの立ち合いのもと、三日間に亘る大掛かりな調査が行われ、その結果、墓下からは遺骨・遺髪・遺物など、何一つ証跡となるものは出土しなかったことが判明し、その速報は「時事新報」に報じられている。
ところが、この発掘調査から一世紀余りを経た二〇一九年五月、西逸見町の浄土寺住職が、墓下から三浦按針の「鬢髪」が出土したと誤報した。三浦按針の墓下からは、何ひとつ発見されなかったことは、すでに研究者によって共有されている。そもそも頭髪と鬢髪を一意的に区別できるものではない。
この「三浦按針の鬢髪出土」の誤謬は、五月十日付で共同通信社より全国二十三社に配信され、神奈川県内では「日経新聞」「朝日新聞」「毎日新聞」「神奈川新聞」「東京新聞」「タウンニュース横須賀版」などに、一様に掲載され、デジタル上でも公開されてた。公共機関が公表したことによって史学専門部門にも紹介された。専門家は承知しているが、一般人にとって、この誤謬は極めて危険である。この件については、横須賀市文化財専門審議委員会の前委員長・上杉孝良氏も横須賀市に抗議したものの、このまま放置して置けば、後世、再び浄土寺の住職によって、繰り返される可能性は否定できない。そこで正しい情報を書き残しておく義務があると考え、私は、日本海事史学会に紙面を頂き、出土していないということを投稿させて頂いた。
出土していないことは、すでに『時事新報』によって発掘報告されている。
明治三十八年の三浦按針墓下の発掘調査で証跡が得られなかったことは、大正六年の加藤三吾著『三浦の按針』(六〇~六一頁)、昭和十五年の幸田成友著『史話東と西』(六〇~一頁)、昭和五十九年の岡田章雄著『三浦按針』(二九二頁)によって報知されてきたことでもあるが、当時の発掘情報を伝えた『時事新報』の明治38年の、5月24日付、5月26日付、5月28日付、によって出土しなかったことが報じられている。
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