ユニフォーム・コレクションVol.5(Rev.1) ~永久欠番編5~ 長嶋茂雄 | いつもごろごろきまぐれ日記

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サインやユニフォームの紹介もしています。

ユニフォーム・コレクション第5弾を改定しました。

変わった点は、画像の追加のみです。

下の方に追加していますウインク

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ユニフォーム・コレクション第5弾は、ミスタープロ野球 長嶋茂雄さんのユニフォームです。

現役時代は知りませんが、監督として90年代のジャイアンツを率いていた姿を覚えています。

監督勇退後は、巨人軍終身名誉監督としてジャイアンツを見守っております。

 

恒例になった「巨人の星」との関連を・・・(いつから恒例に?キョロキョロ

思いっきり長くなったので飛ばしても結構です滝汗

「巨人の星」の物語は、長嶋さんのエピソードから始まります。

ジャアインツに入団になった長嶋さんを「ジャイアンツ史上最高の三塁手になる選手」というような説明をします。(細部のセリフは忘れてますショボーン

その時に川上さんが「ジャイアンツには幻の三塁手がいた」という話をします。

それが星一徹です。

戦争で肩を壊した一徹が魔送球(三塁ゴロを一塁へ送球する際に、ランナーに当たりそうなボールを投げ、そこからとんでもない変化をしてファーストミットにおさまるボール)を編み出した事で、ジャイアンツを去る事になったというエピソードが語られます。

そして、長嶋さんが会見場のステージに上がる時に、一つのボールが長嶋さんを襲います。

しかし長嶋さんは動じませんでした。

そのボールを投げた人物が、少年時代の星飛雄馬でした。

「なぜ避けなかったのか?」という記者の質問に、長嶋さんは「今の魔送球の話しを聞いて、ピン!と来た」と、持ち前の野生の勘で察知した事を話します。

壇上にいた、川上さんは「まさか一徹!?」と思います。

ここで、一つの疑問が・・・

当時は監督でなかった川上さんがなぜ会見場にいたんだろうか・・・?

 

また、続編である「新・巨人の星」で、飛雄馬が復帰したのが長嶋監督の二年目のシーズンでした、。

この企画自体、最下位に沈んだ長嶋ジャイアンツを、何とか盛り上げようとして立ち上がったものです。

「新・巨人の星」は飛雄馬が右ピッチャーとして活躍する(そこまで活躍したかなぁ?)姿が描かれますが、コントロールが悪く使い物にならないため、当初は代打をしていました。

オールスターのファン投票で、アンチが左腕が使えない飛雄馬を見世物にしようと外野手として投票しオールスターに出場します。

その時、セ・リーグを率いていた古場監督に、長嶋さんがランナー三塁の場面で「飛雄馬を使ってくれ」とお願いします。(作品中では長嶋さんがオールスターに爆弾をしかけたという言葉で描かれてます)

その場面が訪れた時に飛雄馬がライトに入り、おあつらえ向きにライトフライが上がりキャッチした後、右手にはめてあったグローブを取り、右腕からイチローもびっくりのレーザービームというか波動砲でバックホームをしてランナーを刺します。

長嶋さんの爆弾で、飛雄馬の右ピッチャーとしての生活が始まります。

 

長くなってしまいましたが、長嶋さんは「巨人の星」の中で、最も重要なカギを握る実在の人物だったわけです。

フィクションの世界にも影響を与えるほど、絶大な存在感を持っていたのが「長嶋茂雄」という人だったのです。

 

それでは・・・

 

2007年に5000勝記念で販売されたユニフォームです。

翌年に行われたレジェンド・デーの際に再販されました。

このユニフォームは再販の時に購入したものです。

サイズはOサイズです。

 

お手元にある方は見比べてみたらわかるかと思いますが、このユニフォームは背番号を貼り換えてます。

黒澤さんのユニフォームでも説明しましたが、このユニフォームは2桁背番号を使って製作されており、通常の一桁の背番号よりも幅が狭くいのです。

ミスタープロ野球がそんな狭い背番号で沽券に関わるし、世間に与えた影響はこんな細いものでは無いということで、一桁背番号に貼り換えてもらいました。

比較した画像を載せれば良かったのですが、諸事情により載せられませんでした。

後日、比較できたらと思います。

 

うん!やっぱり、このネームと背番号のバランスは絶妙である爆  笑

2000~2001年シーズンで背番号3を着用したので、新鮮味は無いと思いますが、NAGASHIMA 3 というユニフォームの背中は何とも言えない神々しさを感じます照れ

 

長嶋さんについては、もう説明する事もないでしょうし、説明すると枚挙に暇がありません。

1958年に、六大学のスーパースターとしてジャイアンツに入団。

(この入団年って、いつを基準にするんでしょうね? シーズンオフに入団の契約を結ぶので選手としてプレイをする前年が入団年ということになると思うのですが、そのシーズンはプレイをして無いわけだし・・・ でも選手としての契約は翌年2月~11月までのはずなので、プレイする年でいいのかなぁ? ここではプレイ開始年を入団年として扱います)

その年、本塁打王と打点王を獲得して、新人王に選ばれました照れ

他にも夏場まで首位打者争いをしており(最終的には2位)、新人にして三冠王というのも視野に入ってましたびっくり

意外に知られてない事だとは思いますが、盗塁が37(リーグ2位)で、史上初の四冠王も狙えたほどだったのですポーン

さらにホームラン1本の差で、新人でのトリプルスリーを逃しておりますガーン

今でも語り継がれてるベース踏み忘れ事件は、この年に起こったもので、ちゃんと踏んでいれば、今後のプロ野球でも史上唯一となるであろう新人でのトリプルスリーを達成できていましたチーン

実質30本塁打だったたけに、この記録を達成できなかったのが非常に残念でなりません。

このように華々しくも、どこかでうっかりしてる完璧人間でない所が、長く人々に愛される所以なのかもしれませんねおねがい

 

その後は、ジャイアンツの中心選手として史上空前の9年連続日本一に貢献します。

また、ショートゴロをサードゴロにするプレイ(セカンドゴロも取りに行った事があったとか)、フルスイングをした時にヘルメットを飛ばす(ヘルメットを一回り大きいものを被っており、計算済み)姿、「お客さんがどうやったら喜ぶだろう?」という事を常に念頭においてプレイをしていたそうです。

引退の時の「我が巨人軍は永久に不滅です!」との言葉は、今でも語り継がれてますね。

 

現役引退後、すぐに監督に就任します。

この監督就任は曰く付きで、現役続行希望であったり、コーチを経てから監督をしたいなど、本人の思惑とは別の方向に力が働き、監督就任になったようです(これは2016年の高橋由伸さんの監督就任と似たような感じですね)

元々、川上監督が次期監督を長嶋さんにしようと、現役晩年には監督会議にも参加させたのですが、残念ながら川上色は継承されず、コーチ陣を一新し長嶋カラーを打ち出した新生ジャイアンツになりました。

V9時代の主力に衰えが見え始めたのと、頼みの綱の王さんも怪我で不振、ポスト長嶋として戦後初めて外国籍の選手(ジョンソン選手)を入団させましたが、期待された活躍ができませんでした。

何より選手・長嶋の穴が埋めきれずジャイアンツ監督初年度はジャイアンツ史上唯一の最下位になりました。

選手自体も、川上野球から長嶋野球への変遷についていけなかったという話もあります。(これも2016年の原野球から高橋野球に変わった状況に似てる?)

翌年、ファイターズの張本選手を獲得、またテスト生として星飛雄馬を獲得、ライオンズから加藤始選手を獲得するなど戦力を補強し優勝、翌年も優勝しています。

1980年に監督を解任された時には、読売新聞の不買運動が起こったほどでした。

長嶋監督時代に頭角を表し始めた選手が、のちの藤田監督、王監督時代に中心選手として活躍することになり、長嶋監督が続投していたら80年代はどのように戦っていたのか?という事は興味深いところです。(たらればの不毛な話なわけですがショボーン

 

その後、12年の時を超え、1993年に再びジャイアンツの監督に復帰します。

その初仕事は、超高校高級バッターの松井秀喜さんをクジ引きの末、獲得したことでした。

これは後々のジャイアンツにとっては、大きな出来事でした。

長嶋監督は、1000日計画として松井選手を4番バッターに育て上げる事を明しました。(4番バッターになるには1000日を超えましたが、球界を代表するバッターに成長し90年代のジャイアンツを支える存在となり、メジャー移籍をしてからも長年に渡り活躍するバッターになりました。今でも、その師弟の絆は固く、国民栄誉賞を同時に受賞したほどでした)

長嶋監督の復帰は、「80年代に活躍した選手の年齢が上がってきており、彼らを育成した若手育成の手腕を生かして新らたなジャイアンツを作って欲しい」という理由であったのですが、その年にFA制度が導入された事も相まって、若手育成よりも補強による戦力強化に比重が置かれるようになり、「スピード&チャージ」のスローガンとは裏腹にスピードの無い大砲主義に移行することになりました。

就任9年間でリーグ優勝3回、日本一2回という成績を上げております。

また、監督通算年数15年はジャイアンツで最も長く、通算勝利数1034勝は川上監督につぐ2位となっています。ジャイアンツの監督で1000勝を達成したのは2人しかいません。

 

ジャイアンツの監督を退いたあと、2004年のアテネオリンピックの日本代表監督に就任しましたが、前年に脳梗塞で倒れたため、オリンピックの舞台で指揮をとることはかないませんでした。

 

とにかくファンサービスにあふれた方で、元気な時には自宅前で気軽にサインに応じていました。(現在では自宅でのサインはしないようにしてるようです。)

病気になってからもファンへのサービス精神は変わらず、右手が麻痺で不自由なため、左手でサインを書いて応対をされています。

そんな状態でもファンのためにと想う長嶋さんの気持ちを踏みにじるような、長嶋さんの左手サインを売るという行為には怒りを覚えますプンプン

 

「野球というスポーツは人生そのものだ・・・」という長嶋さんの座右の銘は、心に響きます。

 

通算成績(打率:.305、打点:1522、本塁打:444本、盗塁:190)

新人時代に盗塁を37個してリーグ2位になったのですが、意外と盗塁が少ないんですね。

盗塁の成功率は決して高いものでは無かったので、走らなくなったんでしょうね。

 

1988年に野球殿堂入り。

2013年に国民栄誉賞を受賞。

 

【追記:2016.12.03】

このユニフォームにサインをいただきましたウインク

長嶋さん、ありがとうございます照れ