ユニフォーム・コレクションVol.9~My 永久欠番編3~ | いつもごろごろきまぐれ日記

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ユニフォーム・コレクション第9弾は、My 永久欠番編第3弾です。

 

それは、この人です!

 

7番のすごいやつ 不運の天才・吉村禎章さんです。(2008年 Oサイズ)

 

高卒でドラフト3位ながらも、2年目から頭角を現し、槙原選手、駒田選手と共に50番トリオとして将来を嘱望された選手です爆  笑

そのバッティングセンスは天才と称され、3年目からレギュラーに定着し、原選手の次の4番バッターと言われたほどでしたウインク

ジャイアンツの中心選手として、順調に成長しこれからという時、1988年7月6日札幌円山球場でのあの事故が・・・ガーン

僕はちょうど試験中だったので中継を見ていました。

中々起き上がらず、タンカで運ばれる吉村選手を見て痛々しく思いましたが、まさかあのような大きな怪我だったとは、その時には露にも思いませんでしたショボーン

 

その後、リハビリを重ね、1989年9月2日対スワローズ戦の7回裏。

1年超に及ぶ手術を乗り越え、遂にグラウンドに帰ってきましたクラッカークラッカークラッカー

その時の東京ドームの大歓声は、テレビからもはっきり伝わりました照れ

あの大歓声に包まれバッターボックスへ向かう吉村選手の姿は忘れられません。

もう一つ忘れられないのが、翌年のリーグ優勝を決めたサヨナラホームランですラブ

なんとなく打ちそうな予感があったのですが、まさか本当に打つとは思いませんでした。

 

しかし、怪我の影響はぬぐいきれず、その後はスタメンでの出場少なく、晩年は代打の切り札的存在になりました。

 

吉村選手の怪我が無ければ、原選手と言うなればHY砲として80年代後半~90年代半ばまでのジャイアンツを背負っていたはずですし、原選手の負担も軽減されて、結果的に原選手の成績も上がっていたかもしれない、そんな声さえもあったほどです。

それほど、吉村禎章という男は、ジャイアンツに欠かせない選手でした。

バッターボックスで構えた時に、醸し出す雰囲気(ここで打ってくれそうな雰囲気)は、原さんよりも吉村さんの方に感じましたしねおねがい

その雰囲気を次に感じたのは、松井選手でした。

4番の系譜も、原選手→吉村選手→(落合選手)→松井選手と連なっていた事でしょう。

たらればに尽きない、不運の天才・吉村さん。

 

僕の中の、7番のすごいヤツは、吉村さん以外にありません。